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清水正・画
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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
随想 空即空(連載195)
キリスト教的自我を交響楽団の指揮者とするなら、この指揮者はすべての楽器の独自の音をそれぞれ等価と見なしても発狂するようなことはない。指揮者はあくまでも指揮者であって、自分の自我を一つの楽器に同化させる必要はない。つまり、ポリフォニック的思考法を駆使して指揮することは、その役割に徹すればいいことであって、ポリフォニック的思考法によって唯一絶対の《我》が危機に襲われることはない。イワン・カラマーゾフが狂気に陥ったのは、彼の眼前に出現した悪魔が彼のキリスト教的自我の破綻に強く作用したとも言える。ドミートリイ・カラマーゾフは人間の広大な心の世界には〈神〉と〈悪魔〉が同等の力をもって存在し、永遠に決着のつかない闘いをしていると語っていた。これをそのまま信じればドミートリイはキリスト教徒ではない。キリスト教徒にとって〈悪魔〉の存在は認められても、それが〈神〉と同等の力を持つとは考えられない。〈悪魔〉はどんな場合においても結局は〈神〉の前に屈服させられる存在でしかない。ドストエフスキーの文学はポリフォニック的思考法を駆使して書かれた作品には違いないが、だからと言ってドストエフスキーはキリスト教的自我を崩壊させてはいなかった。換言するなら、ドストエフスキーは小説を書くときはポリフォニック的思考法を存分に駆使するが、その他の場合はモノローグ的自我を保持していたということになる。
『カラマーゾフの兄弟』の人物たちにたとえて言うなら、現実世界を生きるドストエフスキーはドストエフスキーであって、〈イワン〉でも〈ドミートリイ〉でも〈アリョーシャ〉でも〈フョードル〉でもなかったということである。しかし、現実世界をモノローグ的に生きるドストエフスキーが『作家の日記』でロシア帝国の戦争を讃美する時、どうしてそれに対する反対意見が生じてこないのかについては納得がいかない。極端な言い方をすれば、ドストエフスキーはポリフォニック的思考法の恐ろしさを十分に理解できていなかったのではないかとさえ思う。
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