随想 空即空(連載10) 清水正
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清水正・画
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随想 空即空(連載10)
生まれたときからキリスト教の影響を受けている者は別として、青年期に知識としてキリスト教に触れた者が、キリスト教に入信することがどうして可能なのか、少なくとも知性と理性で物事を判断する教育を受けた者にキリスト教の神を無条件で受け入れることは不可能である。
わたしはドストエフスキーの文学はディオニュソス的なもので、精神の分裂をそのままに許容しているものと見なしている。『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面でアリョーシャを囲んだ少年たちが「カラマーゾフ万歳」と唱えるのはその証だと思っている。少年たちは「アリヨーシャ万歳」とは言っていない。もし「カラマーゾフ万歳」を作者ドストエフスキーのキリスト教信仰の証として受け止めるのならば、ドストエフスキーの信仰は神の存在を認めなかったイヴァンやフョードルの〈無神論〉をも内包したキリスト教ということになり、それまでの教義とは大きく逸脱することになる。ベルジャーエフが、もしこのことを認めた上でドストエフスキーをキリスト者と見なすのであれば、確かにドストエフスキーはそれまでのキリスト教の考えを異端と思えるほど深めたとも言えないことはない。
わたしがここまで書いて改めて想起するのは、ドストエフスキーがデカブリストの妻フォンヴィージン夫人宛に書いた手紙(一八五四年二月下旬)である。この手紙はドストエフスキー研究家の誰もが引用する有名なものだが、しかしその解釈においては納得のいくものが少ない。
今回も改めて引用し、考えを巡らしてみたい。引用は米川正夫訳(河出書房新社版ドストエーフスキイ全集16巻・書簡上)に拠る。
わたしはいろいろの人から聞きましたがN・D、あなたはたいへん宗教心がお深いそうですね。それは、あなたが宗教的だからではなく、わたし自身が、それを体験し、それを痛感したから、あえて申し上げますが、そうした瞬間には『枯れかかった葉』のように、信仰を渇望し、かつそれを見いだすものです。それはつまり、不幸の中にこそ真理が顕われるからです、わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です、今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われるまで、不信と懐疑の子です。この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶に値したか、また現に値しているか、わからないほどです。その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、いよいよ魂の中に根を張るのです。とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。キリストより以上に美しく、深く、同情のある、理性的な、雄々しい、完璧なものは何ひとつないということです。単に、ないばかりでなく、あり得ない、とこう自分で自分に、烈しい愛をもって断言しています。のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望でしょう。(155)
Я слышал от многих, что Вы очень религиозны, Н〈аталья〉Д〈митриевна〉. Не потому, что Вы религиозны, но потому, что сам пережил и прочувствовал это, скажу Вам, что в такие минуты жаждешь, как 《трава иссохшая》, веры, и находишь ее, собственно потому, что в несчастье яснеет истина. Я скажу Вам про себя, что я ― дитя века, дитя неверия и сомнения до сих пор и даже(я знаю это)до гробовой крышки. Каких страшных мучений стоила и стоит мне теперь эта жажда верить, которая тем сильнее в душе моей, чем более во мне доводов противных. И. однако же, бог посылает мне иногда минуты, в которые я совершенно спокоен; в эти минуты я люблю и нахожу, что другими любим, и в такие-то минуты я сложил в себе символ веры, в котором всё для меня ясно и свято. Этот символ очень прост, вот он: верить, что нет ничего прекраснее, глубже, симпа〈ти〉чнее, разумнее, мужественнее и совершенее Христа, и не только нет, но с ревнивою любовью говорю себе, что и не может быть. Моло того, если б кто мне доказал, что Христос вне истины, и действительно было бы, что истина вне Христа, то мне лучше хотелось бы оставаться со Христом, нежели с истиной. (アカデミア版全集28-1巻 176)
まず今回は、手紙の相手に注目してみたい。ドストエフスキーはこの手紙で信仰に関するありのままの思いを端的に語っているが、これは相手が宗教心のあついデカブリストの妻だったからできたということが言える。国家に反逆した廉でシベリアに流された夫を追ってシベリアに就いたフォンヴィージン夫人の艱難辛苦の歴史をわたしは何も知らないが、しかしペトラシェフスキー事件に連座した廉で逮捕、監禁、取り調べ、死刑判決、死刑執行寸前の体験、シベリアでの監獄生活を経てきたドストエフスキーは深く夫人の苦悶と信仰を理解していただろう。それにドストエフスキーはシベリア流刑の途次、デカブリストの妻から新約聖書を手渡されている。この新約聖書が唯一読むことを許された本である。何不自由のない学者が書斎で聖書研究するために読んだ新約聖書ではない。
ドストエフスキーのシベリア監獄での聖書体験を抜きにしては、このデカブリストの妻宛の手紙を理解することはできない。ドストエフスキーは「不幸の中にこそ真理が顕われる」と書いている。夫人と同じような苦悩をドストエフスキー自身が〈体験〉し〈痛感〉したからこそ、夫人の深い宗教心の秘密に参入できているのである。ドストエフスキーは驚くほど正直に自分が〈不信と懐疑〉の世紀の子であることを打ち明けている。
ドストエフスキーがここで不信と懐疑の世紀の子であることを告白しているだけなら、別にやっかいな問題はない。問題は不信と懐疑が強まるほど〈信仰のシンボル〉すなわちキリストが立ち上がってくるということである。彼は力強い調子で、愛をもって断言する「キリストより以上に美しく、深く、同情のある、理性的な、雄々しい、完璧なものは何ひとつない」と。さらに「もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望でしょう」と。
真理よりもキリストとともにありたい断言する〈不信と懐疑の子〉、〈不信と懐疑の子〉でありながらキリストとともにありたいと断言するキリスト者、どちらに重点を置くかでドストエフスキーに対する見方は異なる。ふつうに考えれば、キリストと真理が一致するからこそ、ひとはキリストの言葉に従おうとする。もしキリストが真理の外にあっても、キリストとともにありたいというのはもはや狂信の部類に属する。しかし、だからと言ってその〈狂信〉を拒むことはできない。むしろこの背理的な確信にこそ信仰の秘密が隠されているとも言える。〈あれかこれか〉の二者択一を迫られた者がはてしてどちらを選ぶことができるのか、〈あれ〉(不信と懐疑)も〈これ〉(キリスト)も等しい価値を持っているとしたら。
不信と懐疑を許容するキリストであれば、ドストエフスキーは間違いなくキリスト教徒であろう。しかし不信と懐疑を断固として拒むキリストであるなら、ドストエフスキーはキリスト教にとって最も危険な異端ともなり得よう。
ベリンスキーはロシアの僧侶たちの愚昧と堕落を容赦なく糾弾したが、分離派には一縷の望みを託していた。教会の位階制度にあぐらをかいて私腹を肥やしていた堕落坊主どもは論外だが、教会や司祭の影響から離れ、独自に直接的に神を問う分離派の信徒たちを、ラジカルな思想を信奉していたベリンスキーをもってしても否定するわけにはいかなかった。因みにドストエフスキーは『罪と罰』で鞭身派(ソーニャ、リザヴェータ)、逃亡派(ペンキ職人ニコライ)、去勢派(ポルフィーリイ予審判事)といった分離派を取り上げている。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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