モーパッサン『ベラミ』を読む(連載48) ──『罪と罰』と関連づけながら── 清水 正

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載48)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ジョルジュはフォレスチエの死に立ち会い、ノルベール・ド・ヴァレヌの言葉を思い起こす。ジョルジュはここで初めて〈死〉を自分なりに受け取める。作者は蝋燭の灯りに照らされたフォレスチエの死骸を前にしたジョルジュを次のように書いている。

 

  この死骸のそばにいて、暗闇が不安でならないジョルジュは、執拗に死骸を見つめていた。眼も心も、この肉の落ちた顔のために、ゆらぐ焔のために一層くぼんで見える顔のために、引き寄せられ、魅せられて、じっとその上に釘づけにされていた。これが自分の友だちだ、昨日までまだ自分に話しかけたりしていたシュルル・フォレスチエだ! 生きていたものが完全に生きていなくなるということは、なんという奇妙な、怖ろしいことだろう! そうだ! 今こそはっきり思い出される、死の恐怖に憑かれたノルベール・ド・ヴァレヌの言葉が。「ある存在は決して二度と還って来ない。」幾百万、幾十億の人間がこれからも生まれるだろう。ほぼ似たようなものが、眼と、鼻と、口と、頭蓋を持ち、頭蓋の中に思想を持っているのが。しかも、そこにいる男が、その寝床の中に寝ている男が、二度と現われて来ることはないのだ。

  何年かの間、この男は生きた。食べ、笑い、愛し、望んだ。すべての人間と同じように。それが終わったのだ、彼にとっては。永久に終わったのだ。生涯とは! 何日かということではないか。そしてその後ではもう何もない! ひとは生まれ、大きくなり、幸福だと思い、期待を持つ。それから死ぬ。それでおさらばだ! 男でも女でも、お前は二度と地上に還って来ることがない! そのくせ、みんな自分自身の中に、永遠を求める熱烈な、実現不可能な欲望を抱いている。各人は世界の中の一種の世界だ。そしておのおのはやがて新しい芽を育てる肥料の中に完全にとけて失われてしまう。植物も、動物も、人間も、星も、世界も、すべてが生命に勢いづき、その後で、死んで、形を変える。そして絶対に、ある存在は二度と還って来ない。昆虫でも、人間でも、星辰でも!

  一種の恐怖が、混沌とした、巨大な、圧倒的な恐怖が、デュロワの心の上にのしかかった。この無限の虚無、避けがたい虚無、あまりにも束の間の命しかない、あまりにも惨めなすべての存在を破壊しつくしてしまう虚無に対する恐怖だった。その脅威の前に彼は早くも額を伏せた。何時間の間しか生きない蠅のことを、何日か生きる獣のことを、何年か生きる人間のことを、何世紀かの間生きる陸地のことを、彼は考えた。それとこれとの間にどれだけの差があるというのか? いくつかの夜明けに他のものよりはよけいに出逢う、それだけのことではないか。

  死骸の方を見ないように彼は眼を外らせた。(上巻・282~283)

 

 新聞記事さえ満足に書くことができない、謂わば無教養に近い、中身空っぽの男が、ここに引用したままに思ったのかどうか疑わしい。フォレスチエ夫人の力によって新聞記事を完成させたように、ジョルジュの〈思い〉は作者が代筆しているように思える。何度も指摘しているように、ジョルジュは作者の力添えなしには主人公としての役割を果たし得ない色男なのである。『ベラミ』冒頭部におけるジョルジュの教養のない軽佻浮薄な色男の印象を覆すことは容易ではない。

 ジョルジュは自分の死生観をもって、ジョルジュ・デュロワの死生観に耳を傾けていたわけではないし、フォレスチエの死骸を凝視して死に対する思いを深めたわけでもない。早急な判断は避けたいとは思うが、ここに引用した場面における死に対する恐怖やジョルジュ・デュロワの死生観は作者モーパッサンのそれを多分に反映しているのではないかと思う。

    ジョルジュ・デュロワはすべての宗教は愚劣だと語るが、それに対する信仰者の側からの反論を展開する人物は用意されていない。死は誰も逃れることのできない絶対事実であり、すべての生物は例外なく死に呑み込まれていく。この事実を認識してノルベール・ド・ヴァレヌも、フォレスチエも、そしてジョルジュもどうしようもない虚無の淵に突き落とされる。未だ彼らはこの虚無を肯定的に受け止め、悟りの境地へと至りつくことはできない。僧侶の言葉に従って、罪を告白して息を引き取ったフォレスチエが死の間際で回心したとは思えない。彼はキリスト教国に生まれ育った者として、死の儀礼を慣習的に受け入れたと言った方がいいだろう。

 『ベラミ』においては、死を前にした絶望に対して、キリストが死んで四日もたった〈ラザロの復活〉を取り上げる人物は登場しない。現代哲学はハイデッガーに見られるように人間を死すべき存在としてとらえており、〈復活〉であり〈命〉であるキリストを信じれば永遠の命を獲得できるという、キリストの教えに基づく真理に関しては眼をそらしている。

 キルケゴールは「神を前にしての絶望は罪である」と言っているが、『ベラミ』の無神論者たちは、神を前にして絶望しているのでなく、死を前にして絶望している。彼らはそもそもキリスト教国の人間でありながら、神やキリストを自らの眼差しのうちにおさめていない。彼らはすでに、キリスト教の〈父なる神〉や〈神の独り子キリスト〉の呪縛から解き放たれた者として現世の果てしない欲望にまみれ、そして救いようもなく絶望しているのである。

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発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

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