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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載40)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ノルベール・ド・ヴァレヌとジョルジュ・デュロワの対話場面に、ポルフィーリイ予審判事とロジオン・ラスコーリニコフの対話を期待することはできない。老詩人ノルベールにふさわしい思想なり信仰を持った人物を彼の前に立たせなければ、彼の言葉は相手に届くことはない。読者は対話の形式をとった詩人の孤独な独白を聞くことになる。余りにも精神的次元の異なった老詩人と若い色男の対話を、いったいどこの誰が対話として受け止めるだろうか。わたしは詩人ノルベールの空しくも悲しい〈独り言〉を聴く思いである。精神的人物の前でジョルジュはものに感じる心を持たない一個の木偶として立っているに過ぎない。なんとも厭味な設定だが、作者の設定それ自体を覆すわけにもいかないので、しばし老詩人の発する言葉に耳を傾けることにしよう。

 

 ――(略)人生は山登りのようなものさ。登っている間は、ひとは頂きを見ている。そして自分をしあわせだと感じる。が、上に着いたが最後、たちまち、下りが見える。終りが、死である終りが、見える。上る時にはゆっくりだが、下りとなったらめっぽう速い。君くらいの年齢の時には、ひとは陽気なものだ。いろいろなことを希望に描く。もっとも、決して希望は到来しはしないがね。僕くらいの年齢になっては、もう何にも待つものはない……死を待つばかりさ。(上巻・209)

 

    何に縋りつけばいいのだ? 誰に向かって絶望の叫びをあげればいいのだ? 我々は何を信じることができるか?

  すべての宗教は愚劣だ。子供だましの道徳と利己的な約束で、言語道断の愚かな代物だ。

  死だけが確実だ。(上巻・212~213)

 

 ここにノルベール・ド・ヴァレヌの死生観が端的に表現されている。人間は死すべき存在で、死を免れる者はいない。少なくとも理性的知性的次元で考えれば、前世とか来世を信じることはできない。すべての人間が否応もなく死へと向かって前進せざるを得ない。まさにハイデッガーの言う通り、人間は訳もわからず世界に投げ出された存在で、やがては死に呑み込まれるほかはない。理性は神の存在に関しては無力であり、あるかないかの判断を下す能力がない。結局、人間の生は死に呑み込まれてしまうのであれば、現世でどんなに金をため込んでも、権力を掌握して多くの人間を支配統治したところで空しいということになる。自らの死を忘却の彼方に押しやって、現世のつかの間の生を欲望の赴くままに費やしたとしても、いずれは死を意識せざるを得ない局面を回避することはできない。キリスト教徒は神の恩寵によって魂の救済を授かるかも知れない。しかし近代の自然科学的知性の洗礼を受けた理性的人間が、神の恩寵とか、死から復活したキリストをそのまま認めることはできない。キリストの復活と命を信じれば、永遠に死ぬことはないなどと言われてもそれを素直に信じることはできない。そんなことは理性に立脚する人間にとっては妄想でしかあり得ない。

 キリストの説く愛を実践すれば、せいぜい三十歳ぐらいまでしか生きてはいられない。キリストの教えに忠実な者は、キリストの言った通り、十字架に掛けられる運命を引き受けるしかないのである。教会という組織に属し、キリストの教えに反する教義に忠実であれば七十も八十歳も延命できるだろうが、そんな現世的延命とキリストの言う〈命〉には何の共通性もない。キリストは自分の言葉を理解しない十二人の男弟子と行動を共にしたが、この弟子たちはキリストの死後も誰一人キリストを真に理解することはなかった。キリストはキリストの生き方を全うしたとしても、彼の死と復活に関する教義を理性の次元で許容することはできない。理性が絶対とは思わないが、それ以上に神の恩寵を絶対とは思えない。キリスト者に言わせれば、信仰は背理であり、理性を超越しなければ神の恩寵に授かることはできないと言うだろう。しかし、背理的な信仰がもたらす危険というものを彼らは真剣に検証したことがあるのだろうか。背理をいったん受け入れた者は、もはや世界に生起しているいかなる事柄に関しても理性的な判断を下せないのだとすれば、もはやそのこと自体が危険とは思わないのだろうか。自然科学の恩恵を存分に授かりながら、誰の前にも復活してみせるわけでもないキリストをなぜ信じられるのか。現代のキリスト者と称する者のだれが、ウクライナの国民に向かって「汝の敵を愛せよ」と言えるのか。メディアは戦局に関しては饒舌だが、戦争(ひとがひとを殺すという現実)に関する本質的な論議をなんら展開することがない。今こそ、神の恩寵に授かるキリスト教信徒が自らの十字架を背負って声をあげるべきなのではないか。教会の教義に忠実な臆病な自己保身の徒ばかりが、神の名において戦争を支持しているのではないか。小難しい教義になど誑かされなければ、キリストの仮面を巧妙にかぶった反キリストばかりのようにも思える。ノルベール・ド・ヴァレヌが宗教を愚劣だと罵るには、それなりの正当な理由があるのである。

 

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

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