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清水正・画
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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
モーパッサン『ベラミ』を読む(連載3)
──『罪と罰』と関連づけながら──
清水 正
『ベラミ』に戻ろう。引用は田辺貞之助(新潮世界文学22)に拠る。
彼は生れつき男ぶりがよく、それに以前下士官をつとめたので、姿勢もしゃんとしていたから、ぐっと反り身になり、軍人風の慣れた手つきで髭をひねって、あとに残る客たちをすばやく、ぐるりと見まわした。まるで投網のようにパァーとひろがる、美男の独身者に独特の視線だった。
女たちが彼のほうへ顔をあげた。小柄な三人の女工と、中年の音楽教師と、それは髪もろくにとかさず、身だしなみがわるく、いつも埃だらけの帽子をかぶり、だらしのない服を着ている女だったが、それから亭主同伴のふたりの細君。どれも一皿いくらのこの料理屋の常連だった。(291)
作品の読み始めに主人公の名刺を渡されたようなもので、出だしの一行と、ここに引用した箇所で読者は主人公の名前と、容貌、日常生活のひとこまを与えられたことになる。『罪と罰』の登場人物たちの名前はそれぞれ意味を持っているが、『ベラミ』の主人公ジョルジュ・デュロワはどうなのであろうか。同時代人が読めばその名前だけで家柄、身分、また作者がこの名前にどのような特別の意味を与えているのか容易に想像つくものなのか知らないが、わたしは何の知識もないので、単に他者と区別する記号としての名前の域を一歩も出ない。とりあえず名前に関しては不問に付して先に進むことにしよう。
まず言えるのは、ここに引用した場面だけでもまるで映画を観ているように明確に映像が浮かんでくる。残念ながらジョルジュがどのような服装をしていたのか作者は記していないので、厳密に言えば明確ではない。漫画家であればこの美男の、おそらく長身の、おそらくスマートな主人公にどのような衣装を着せるだろうか。
とりあえずこの引用箇所から思い浮かぶ事柄を書いていこう。ジョルジュがすわった椅子、そしてテーブルにはどのような食事が運ばれてきたのか。食事代を節約しなければならないほどに逼迫していたのなら、テーブルには安い一皿盛りの食事があったはずだ。それこそ五百円もしない粗末なものであったかも知れない。
それにしても今気づいたが、この時点では朝食なのか昼食なのか、それとも夕食であったのか、時計時間が記されていない。分かることだけ見ておけば、ジョルジュの美男子ぶりはこの安レストランの常連にとって、ふだん見ることのできない珍客、すなわち安レストランには相応しくない客であったこと、従って常連客は食事中のジョルジュに対し、しょっちゅう不躾な好奇の眼差しを注いでいたと想像できる。
もちろんジョルジュもそのことを知っていた、だからこそ勘定を終えたジョルジュはこれら観客席に向かってグリルと一回りしてさりげなく挨拶を交わしたということなのだろう。その時、ジョルジュの目にとまった観客たちの姿を、作者は客観的なカメラに映し出して読者に提供したというわけである。好奇の眼差しを向けている客の姿、顔つきを作者は冷静にアップまでして見せる。
読者は、いつの間にか安レストランの一人の客の眼差しで〈美男子〉ジョルジュを眺めることになる。読者は確かにドラマ展開の外側に置かれたままだが、しかし同時に作品世界に参入していることも確かなのである。ジョルジュはもはや他人ではない。読者はジョルジュと同じ空気を吸ったり吐いたりする物語世界の中に、彼の同伴者として、あるいはジョルジュに同一化するようなかたちで潜り込むことに成功する。
『罪と罰』を初めて読んだとき、わたしはロジオン・ラスコーリニコフと共に蒸し暑い夏のペテルブルクの街を歩き回り、彼の思いを自分の思いとしてうけとめ、彼と一緒に二人の女の頭上に斧を振り上げたものである。ロジオンの〈非凡人〉の思想をわたしはラスコーリニコフに代わって、彼よりも熱く語ることさえできた。同時にあの頃、〈おしまいになってしまった〉人間ポルフィーリイ予審判事が取り憑いて、わたしは彼以上に饒舌にラスコーリニコフの観念世界を語ることもできた。
さてジョルジュ・デュロワだが、作者はこの男の額に彼の内心を隈無く映し出すカメラを設置していただろうか。安レストランの常連たちの姿態は、ジョルジュの眼差しがとらえたものにちがいないが、同時にそれ以上に作者が設置したカメラによって捉えられている。換言すれば、外的世界の事象は、ジョルジュの主観的眼差しを越えて客観性を保持しており、予感としてはジョルジュが狂気の世界に突入していくような、そういった肥大した観念を抱え持った人物には見えない。今のところジョルジュはしけた、プライドの高い青年だったらとうてい耐えられないような、安レストランの食事にも過度な不満は抱いていないようである。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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