プーチンと『罪と罰』(連載30)

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                清水正・画

 

プーチンと『罪と罰』(連載30)

清水正

 

 トルストイは「神の王国は汝らのうちにあり」で次のように書いている。

 

 「書物やパンフレットによれば、平和はやがて、連盟や会議のおかげで樹立されるのだ。たから当分は、兵隊に行き、軍服を着て、われらの利益のために自分自身をいじめたり、苦しめたりする用意をしろ」と政府は言う。そして会議を開いたり論文を編集したりする学者たちも全面的にこれに同意している。

  この一つの態度は――政府にとっては最も有利な、したがってどこの賢明な政府によっても奨励されている態度である。

  もう一つの態度は――平和への憧憬と戦争の必要との矛盾は恐ろしいものだが、これが人間の運命なのだと思い込んでいる人々の悲劇的な態度である。これらの人々は多くは敏感な、才能豊かな人々で、戦争の恐怖、不合理、残忍さを残らず見、かつ理解しているが、どこか思想が妙にひねくれているために、この状態からの出口がまったく見えず、探そうともしないで、まるで自分の傷口を掻きむしりながら、人類の状態の絶望を楽しんでいるかのようである。

  戦争に対するかかる態度の注目すべき典型は、有名なフランスの作家(モーパッサン)のそれである。フランス兵の教練や射撃を自分のヨットから眺めているうちに彼には次のような考えが浮かぶ――

 「戦争! この言葉を考えただけで、私には、まるで魔法や宗教裁判の話でも聞かされたように一種の恐怖感と虚脱感が湧き、もうすんでしまった、遠い昔の、醜くいやらしい、自然に反することでも言われているかのようだ。

 「食人種の話を聞かされると、われわれはそんな野蛮人よりも自分の方が優れていると感じて得意になって笑う。だが、だれが野蛮人なのか? だれが本当の野蛮人なのか? 被征服者たちを食うために殺人を犯す人々か、それとも殺すために、ただ殺すために殺人を犯す者たちか?

 「いま、草原で散兵が号令に従って走ったり射撃したりしている。彼らがいずれも死を運命づけられていることは、あたかも路上を屠殺人に追われてゆく羊の群と変わらない。草原のどこかで頭を割られるか、弾丸で胸を射抜かれるかして倒れるだろう。しかもこれはみんな、労働も生産もできる有益な若者たちなのだ。

 「彼らの年老いた父親、二十年間、母親にしかできない愛をもって彼らを愛し、いつくしんできた哀れな母親は、半年か一年あとになって、あれだけ苦労し、あれだけ金をかけ、あれだけ愛をこめて育ててやった息子が、あの大きな息子が砲弾に裂かれ、馬蹄に踏みにじられ、のたれ死にした犬のように穴へ投げこまれたことを知らされるかもしれないのだ。すると母親は訊ねる――なぜ大事な息子は殺されたのです、私の望みであり、誇りであり、命でもある息子が? だれにもわかない。だが、なぜなのだろう?

 「戦争! 互いに闘う! 斬り合う! 人を殺す! そうだ現代には、われらの文明、われらの科学、われらの哲学と共に、なお特殊な学校の施設があって、そこでは人を殺すことを、遠方から完全に殺すことを、大勢を一どきに殺すことを、不幸な、哀れな人々を殺すことを、家族を抱えた、なんの罪もない人々を、それもなんの裁判もなしに殺すことを教えているのだ。

 「しかももっとも驚くべきは――国民が政府に反対して立ち上がらないことである。王国でも共和国でも同じことだ。もっとも驚くべきは、社会全体が、戦争の一語を聞いても反乱を起こさないことである。

 「そうだ。明らかに常にわれわれは古い、恐ろしい習慣、罪深い迷信、われわれの祖先の血なまぐさい観念によって生きて行くのだろう。われわれは、かつてそうであったように、これからも本能だけによって左右される獣のままで終始することは明らかなのだ。

 「ヴィクトル・ユーゴーを除いては、恐らくだれひとりとして、解放と真理の叫びを、罰せられずに絶叫し得るものはないであろう!

 「人々はすでに力を暴力と名づけて、これを批判しはじめている、と彼は言った。戦争が裁判に呼び出される。文明は人類の訴えによって裁きを行ない、すべての征服者や司令官に対して告訴状を提出する。

 「犯罪の増大はその減少であるはずのないことを、もし殺人が犯罪ならば、多くの人を殺すことが情状酌量になり得ないことを、もし盗みが恥ずべきことなら、掠奪など絶対に名誉の対象になるはずのないことを人々は理解しはじめているのだ」。

 「この疑いなき真理を宣言しよう、戦争の名誉を剥奪しよう。

 「無駄な怒りだ、――とモーパッサンはつづける――詩人の憤怒だ。今では戦争はかつてないほど尊重され、崇拝されている。この方面の名優であり、天才的殺人者たるフォン・モルトケ氏は、かつて平和団体の代表者たちに次の如き恐るべき言葉をもって答えたとがある――《戦争は神聖であり、神の定めたもうところである。戦争は世界の神聖なる法則の一つであり、人間のうちにあるすべての偉大にして高貴な感情――名誉、清廉、善行、勇気――を支持するものである。戦争の結果によってのみ人々は粗雑きわまる物質主義に陥らずにすむのである。》

 「四十万人が群をなして集まり、日夜不休で行軍し、なにも考えず、なにも研究せず、なにも学ばず、なにも読まず、だれにも利益をもたらさず、汚物の中にころがり、泥の中に夜を明かし、たえざる痴呆状態のうちに家畜の如く生き、町を掠め、村を焼き、国民を破産させ、やがて、同じような人間の集団に出会うと、それに襲いかかり、血の河を流し、断ち割られて泥や血ぬられた土にまみれた死体を戦場に撒きちらし、自らも手足を失い、頭を割られ、だれにもなんらの得にもならないのにどこかの果てで息をひきとってしまうのだが、そのころ諸君の年老いた両親や妻子は餓死しかけている――これが粗雑きわまる物質主義に堕ちぬための行為だと称されているのだ。

 「軍人は――世界の大きな厄介ものだ。われらは自らのみじめな存在を多少とも改善しようとして自然や無知と闘っている。学者たちは同胞の運命を助け、軽減する手段を見いだすために生涯を仕事に捧げている。そしてねばり強く研究をつづけ、発見に発見をかさねて、人知を豊富にし、科学をひろげ、毎日新たな知識を与え、毎日、国民の幸福や、富や、力を増大してゆく。

 「ところがそこへ戦争が始まる。わずか六ヶ月間で、将軍連は、二十年間にわたる努力、忍耐、才能によって創られたものをことごとく破壊しさってしまう。そして、これがすべて、粗雑きわまる物質主義に陥らぬための行為だと称されているのである。

 「われらはそれを、戦争を見たのだ。われらは人々がふたたび野獣になったのを見た。満足の故に、恐怖の故に、血気のために、高慢のために人を殺すのを見た。法律や権利の観念から自由になった彼らが、道で出会って怪しく思われた(それも彼らが驚いたからというだけの理由で)罪もない人々を射殺するのを見た。ただ新しいピストルを試すためにのみ、主人の戸口に繋がれていた犬を殺すのを見た。ただ慰みに射撃するためだけでなんの必要もないのに畑に寝ていた牡牛を射殺するのを見た。そしてこれが、粗雑きわまる物質主義に陥らぬための行為と称されているものなのだ。

 「敵国に進入し、わが家を守ろうとする人間を、彼が部屋着を着、頭に軍帽をかぶっていないからという理由で斬殺する。食うものもない貧乏人間の家を焼き払う、家具をこわし、盗む、他人の酒蔵の酒をあおり、街頭で婦女子を犯し、数百万フラン分火薬をもやし、自分の背後には廃墟と疾病を残す――これが粗雑きわまる物質主義に陥らぬための行為と称されている。

 「結局、これら軍人たちははたしてなにをしたことになるのだろう、彼らの功績はなんだろうか? なにもないのだ。彼らの考え出したものは何か? 大砲と小銃。それだけだ。

 「ギリシャは何をわれらに残したか? 書物と大理石である。ギリシャが偉大なのは、戦争に勝ったからだろうか、それともこれらのものを作り出したからだろうか? ギリシャ人が粗雑きわまる物質主義者に堕ちるのを妨げたものはペルシャ人の侵入ではない。またローマを救い、これを復興せしめたのも、そこへの蛮人たちの侵入ではないではないか! はたしてナポレオン一世は、前世期末の哲学者たちによって開始された偉大な知的運動を継続したであろうか?

 「否、もしすでに政府が国民を死へ送り出す権利を獲得しているとするなら、国民も時には自己の政府を死へ送り出す権利を得たからといってなんら驚くにはあたらないのである。

 「彼らは自己防衛をしているのだ。そしてそれは正しいことなのだ。だれも他人を支配する権利はもっていない。他人を支配し得るのは、被支配者の幸福のためだけである。そして支配を行なう者に戦争を避ける義務があるのは、あたかも船長に転覆を避ける義務があるのと同じである。

 「船長が自分の船の転覆に責任がある時には、彼は裁判にかけられて、もし彼が不注意とか、さらに無能力とかいう点で罪ありと判明すれば、有罪の宣告を下される。

 「ではなぜ宣戦布告ごとに政府をも裁かないのか? もし国民さえこれがわかったら、もし彼らが自分らを殺戮へと駆り立てる権力を裁きさえすれば、必要もない死地に赴くのを拒否しさえすれば、自分たちに与えられた武器をこれを与えた相手に向けて用いさえすれば――もしそんなことがいつか起こるとしたら、戦争は死滅してしまうのだが。

 「だが、こんなことは決して起こらないだろう」。(『水の上』Sur I ’eau 七一―八〇頁)(中村融訳。河出書房新社トルストイ全集」15巻。334~337)

 

 トルストイモーパッサンでなくても、つまりごく普通の人間であっても戦争がいかに非人道的な残酷な行為であるかぐらいは分かるだろう。にも拘わらず、人類は平和時においては愛やヒューマニズムを口にしながら、いざ国家が戦争を決断すると、国民の大半がその決断に従ってしまうのはなぜなのだろうか。

 国家権力の前に個人の力は余りにも脆弱である。徴集を拒めば逮捕、監禁、処刑が待っているとすれば、たいていの人間は無抵抗のまま徴集され、戦場に送られ、殺し殺される惨劇を演じなければならない。法律で、宗教で、人殺しを厳しく禁じておきながら、戦争ではそれが真っ先に許される。人道主義も愛も赦しも、平和時においてのみ通用するまやかしの幻想に過ぎない。しかし、人類は何度戦争を体験しても、戦争が終わればまたこの幻想を大まじめに信じているように振る舞っている。現実を直視する者であるなら、呆れかえってしまうような滑稽で愚かなことを人類は性懲りもなく繰り返していることになる。

 人類の現実と未来にいったいどんな希望を抱くことができるのだろうか。現実を直視すれば、人類は口先では愛や人道主義を唱えながら、実は果てしのない破壊願望を抱いている存在以外のなにものでもないように思える。

    戦争の惨劇を目の当たりにすれば、良心のあるものなら人間そのものに嫌悪を抱くだろう。悲観と絶望のあまり自ら命を絶った者もある。人類が存続すること自体が計り知れぬ罪深いことのように思う人がいてもなんら不思議ではない。

 

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清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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