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清水正・画
ロジオンの犯罪に関する論文
初めてロジオンと会ったときにポルフィーリイ予審判事は、彼が二ヶ月前に「ペリオーチェスカヤ・レーチ」(定期新聞)に掲載された〈犯罪に関する論文〉を読んだことを明かす。この論文はロジオンが半年前に執筆した「犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討した」ものだが、彼自身は論文投稿先の「エジェネジェーリナヤ・レーチ」(週間新聞)が廃刊になったこともあり、この論文のことをすっかり失念していた。ポルフィーリイはこの論文を読んで、その内容と執筆者に強い関心を寄せていた。そこでポルフィーリイは初対面のロジオンに向かって意図的にこの論文の話を持ち出したわけだが、ロジオンは論文には頭文字の署名しかしていなかったのにどうして論文の執筆者を特定できたのかと疑問を発する。
書かれた限りで分かるのは、ポルフィーリイは今般世を騒がしている〈高利貸し殺害事件〉を予審判事として担当するにあたって、関係者から様々な情報を集め、分析していたということである。ポルフィーリイは署名された〈頭文字〉(Р・Р・Р=エル・エル・エル)にも興味を抱いたに違いない。江川卓の調査によれば、ロシア人の名前・父称・姓でР(エル)が三つ付くのはないらしい。とすれば、ポルフィーリイはこの頭文字三つを脳裏に刻印したはずである。
ロジオンの疑問に対するポルフィーリイ自身の返事は「ふとしたことでね、しかも、つい二三日まえですよ。編集者から聞いたんです。知り合いなもんですから……非常な興味を感じましたよ」である。この言葉をどう読めばいいのか。〈つい二三日まえ〉の〈ふとしたこと〉が具体的に語られていないし、知り合いの〈編集者〉から聞いた情報もなんら具体性を持っていない。ポルフィーリイが実際に論文を読んだのは、発表された二ヶ月前ではなく、編集者と会った二三日前であった可能性もある。この編集者が定期新聞の担当者であれば、投稿者〈Р・Р・Р〉の実名(ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ)も住所も知っていたかもしれない。だとすれば、ポルフィーリイはロジオンと会う前に、すでに〈Р・Р・Р〉の実名を知っていたことになる。
ポルフィーリイは論文の話を出す前に、ロジオンがアリョーナ婆さんの所に質入れしていた件について次のように語っている「あなたのふた品は、指輪も時計も、あの女のところで一つの紙包みになっていました。そして紙の上には、あなたの名まえが鉛筆ではっきり書いてありました。それからあなたから、その品を預かった日付も同じように……」(280)と。つまり、ポルフィーリイはロジオン直筆の名前を知っていた。それが〈ラスコーリニコフ〉なのか〈ロジオン・ラスコーリニコフ〉なのか、それともフルネームの〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ〉なのかは不明だが、しかし一つでも〈Р〉が見いだせれば、論文の著者とロジオンが同一人物であることは分かったであろう。
いずれにしても、目の前に存在するロジオンが〈犯罪に関する論文〉に〈Р・Р・Р〉と署名した青年であり、独自の理論によって二人の女を殺害した青年であることをポルフィーリイ予審判事はすでに実証的次元でも明確に知っていたことになる。因みに、ポルフィーリイはロジオンの質入れの〈日付〉も知っているが、その〈日付〉を口にすることはない。『罪と罰』において〈日付〉は作者によって封じられている。作者と密通しているポルフィーリイは、作者が封印したことを敢えて暴くような〈批評〉をすることは絶対にしない。批評は、ポルフィーリイ予審判事を見えない糸で操っている作者の手が見えないようでは、テキストの深淵に踏み込んでいくことはできない。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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