此経啓助「理念(テクスト)と現実(コンテクスト) 」 連載1

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理念(テクスト)と現実(コンテクスト)

――松原寛著『親鸞の哲学』を読む――

此経啓助(元日大芸術学部文芸学科教授)

 一

 松原寛先生の『親鸞の哲学』を読んで、先生の親鸞への想いについて考えてみました。先生と呼ぶのは、先生が私の出身校・日本大学芸術学部の創設者だからです。先生は西田幾多郎に師事した哲学者で、<生命>を存在の普遍的原理にすることで、哲学・宗教・芸術を一体不可分のものとして認識する立場を築かれました。『親鸞の哲学』は一九三五(昭和一0)年五月二0日、先生四四歳の時に、出版社モナスから単行本で発行されました。この小文で用いたテクストは、一九七二年一一月一0日に「日本大学芸術学部五十周年記念」として発行された『松原寛』(非売品)の「付録」として再録されたものです。文章の異動などについてはとくにチェックをしていません。また、明治・大正時代の年号は、時代を反映するように、和暦を用いました。

  同『松原寛』収録の論文「宗教論」で、筆者・岡邦俊は『親鸞の哲学』について、こう述べています。

 「先生の宗教巡礼の旅は、キリスト教に出発し、日蓮法華経、天台、真言の哲学的仏教、やがては禅門にも入った。ついに最後には『親鸞の哲学』に、究極的宗教の安住地を体験されたようである」

 先生にとっての親鸞は、青春時代の旅たちから親しい伴走者であったと思います。というのは、先生の青春時代真っ盛りの二0代(大正時代前半)が親鸞ブームと重なっており、また『出家とその弟子』(大正五年)でブームの立役者となった倉田百三が先生とわずか一歳違い(年長)で、先生と同様にキリスト教西田幾多郎から影響を受けたことなどを考えると、親鸞は知らず知らずのうちに無視できない存在になっていたでしょう。先生の著書『現代人の芸術』(大正一0年)にこんな文章があります。

 「倉田百三君の『出家とその弟子』は何という深刻なる作でしょう。右せんか左せんか、甲にせんか乙にせんかに悩む親鸞の姿、又は遊女になつて居るかへでの姿、一々として吾々人間そのものではありませんか。本当に純なる人間の姿を現わし、多種多面なる人間の姿をあの一巻の中に現わして居るではありませんか」

 作品に描かれた、私たちと同じように苦悩する人間親鸞は、一高(東京第一高等学校)中退や失恋などの挫折に見舞われた倉田の青春が反映されているといわれています。倉田と似た苦悩をしていた先生にとっても、決して他人事ではなかったでしょう。ちなみに、先生が一高在学中に書かれた処女論文のタイトルは「若き哲人の苦悶」です。

 この苦悩する人間親鸞という人物像は、『歎異抄』から生まれたといわれています。『歎異抄』はよく知られているように、親鸞の若い弟子であった唯円が晩年の師の話をまとめたものです。この唯円によって描かれた親鸞像は、明治時代になるまで宗門伝承の親鸞聖人像の陰に隠されていました。しかし、明治時代に入って、『歎異抄』が脚光を浴び、中でも暁烏敏の『歎異抄講話』(明治四四年)は一般大衆に広く読まれました。そして、倉田がそれをモチーフとして『出家とその弟子』に戯曲化し、親鸞ブームが生まれました。

 松原先生はブームの中の苦悩する人間親鸞に関心を抱いたでしょうが、それ以上に宗教者・親鸞が『歎異抄』の中で語った哲学的な言葉に強い印象を持ったようです。京都大学時代、先生は恋愛の破綻を通して見た人間の「悪魔性」から「善人なをもて往生す、いかにいはんや悪人をや」(『歎異抄』)の親鸞の教えに有難さを覚えた、と『現代人の宗教』(大正一一年)で述懐されています。