清水正の文芸時評 玄月「おしゃべりな犬」

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「文芸批評論」の受講生、大学院の受講生は下に貼り付けた「文芸時評」で取り上げた小説家に関する批評を読んでください。
第4回

玄月の「おしゃべりな犬」
清水 正


現代〈在日韓国〉版の『罪と罰
 今、在日韓国人の小説家が注目されている。柳美里の「命」「魂」「生」「声」の四部作はベストセラーになっており、とくに「命」は映画化の効果もあって多くの人に読まれている。この時評では梁石日の「終りなき始まり」、李良枝の「由熙」をとりあげたが、今回は玄月の「おしゃべりな犬」(「文學界」九月号)について書く。この作品が発表されてから二ヵ月たつが、どの文芸雑誌もとりたてて注目した様子はない。が、わたしはかなり興奮して読んだ。すぐに時評でとりあげようとしたが、書きはじめた批評は百枚を越えてしまった。
 この五百枚の問題小説の中にはさまざまな問題がごった煮のように投げ込まれている。劇画風の場面に抵抗を覚える読者もいるかと思うが、わたしはそこに作者の果敢な実験精神をくみとった。随所にドストエフスキーの影響も感じたが、作者はそれを自分なりに消化している。作品の完成度という点に関しては芥川賞を受賞した「蔭の棲みか」(「文學界」平成十一年十一月号)が上であるが、構成の破綻を覚悟してまでさらに新たな世界を切り開いていこうとする作者の挑戦する姿勢を高く評価したい。
 主人公の〈おれ〉は在日韓国人、名前は姜信男(カンシンナム)、日本名は永山信男、仲間からはシンと呼ばれている。大阪の朝鮮人集落チンゴロ村に生まれ育つ。父親はチンゴロ村を支配する実業家(靴工場を経営)で、後に市会議員に立候補するが落選し続ける。シンは高校を卒業するとチンゴロ村を出て茜と同棲、茜を五人の男にレイプさせ、子どもを設ける。茜と結婚したシンは再びチンゴロ村に戻り、父親の事業を手伝う。チンゴロ村ではさまざまな事件がおこるが、ここではシンの妻となった茜と契約愛人にした風俗嬢ドールの関係をめぐって言及するにとどめる。
茜はシンを性的に満足させてくれない。シンもまた茜を性的に満足させられない。ドールの前でもシンは依然として不能だが、尻の穴に舌を入れられる事で射精はできる。シンがドールに求めているのは根源的な癒しであろうが、彼はそれを認めない。シンは自分の行為を分析されたり論理化されたりするのを嫌っている。なぜなら、そんなことで自分が抱えた混沌をどうすることもできないのを、彼自身がよく知っているからだ。茜はシンの混沌の前に無力である。シンは自分が茜から見放されたという孤絶感を抱いており、無意識のうちにドールに〈母性〉を求めている。ドールに「どこ行くん?」と聞かれて「海」と答えているのは暗示的である。シンが必死に求めているのは「海」(大いなる母)である。根源的な存在根拠と言ってもいい。シンには実際の母親がいるのに、彼はその母親に「海」を感じることはできなかった。シンが本当に求めているものを、母親は感じ取ることができない。シンは苛立つ。そして暴力を振るう。
 シンはチンゴロ村を離れ、母に替わるべき存在を求めた。それが茜であった。しかしシンは勃起しない。シンの不能は、彼が母親離れをしきっていない証でもある。茜は母親の代理でしかなく、シンはその代理の母を抱くことができない。つまりシンはチンゴロ村の支配者である父親を殺すことができない。オイディプス的野望の文脈で言えば、シンの内部には父親殺しの願望が渦巻いている。シンが父親を突き飛ばす場面があるが、それは単なる反抗の真似事に過ぎない。シンは再びチンゴロ村にとりこまれ、父親の支配下に落ちる。
 シンの意識下の願望を体現してくれたのが、インチキ牧師カラヴァンを信じ、父親に反逆した若者である。が、この若者は父親の鋭い籠手をくらい、井戸の石畳に後頭部を打ちつけて死んでしまった。この若者が父親に立ち向かったとき手にしていたのが〈小刀〉であったことは象徴的だ。〈小刀〉は〈ペニス〉であり、父親が籠手をきめて若者の手首を粉々に朽ち砕いてしまったのは、父親に反逆する息子の〈ペニス〉を去勢することを意味する。たまたまシンはこの現場を目撃するだけの傍観者にとどまっているが、この若者の運命こそ、シンの内部のオイディプス劇の本質を浮き彫りにしている。
 シンは、この若者のように直接的な〈反逆劇〉を展開することはできない。彼の場合はもっと込み入っている。彼は誰よりも母を求めながら、母を拒まずにはおれない。なぜこんな事態になってしまったのかと言えば、彼が自分の母親に欺瞞を感じ続けていたからである。母親は、自分が在日でありながら、チンゴロ村の女たちに韓国語で話しかけたこともない。彼は母親のみならず、出雲のスニ伯母や彼女の一人娘京子に対しても同じような欺瞞を感じている。彼は自分の存在根拠を大真面目に問おうとすればするほど、深い闇を覗くことになる。掴み所のない深い闇、それは自分がどんなに努力して意志的になっても、自分の無力をさらけ出すことしかできない、解決不能の闇なのだ。
 シンがいつの間にか抱え込んでしまったニヒリズムは、ニヒリズムと名付けられる前の混沌であり、彼はこの混沌とともに生きるほかはない。彼はこの混沌をもちろん論理化できない。だからこそ彼は、数彦が言うような「目をそむけたくなるような滑稽」を演じてしまう。
 〈論理〉を代表するような意志的な人物である茜から見放されたと感じたシンは、糸を切られた凧のように暴走する。彼はドールとともに「海」へと向かう。その途中で彼は、ドール殺しという〈滑稽〉を演じてしまった。彼の頭に刻印されたのはチンゴロ村の広場で父親に反逆した若者が死んだとき、インチキ牧師カラヴァンが口にした「神はそれを望んだのか?」である。
 神を信じていないシンがドール殺しをカルヴァンに告白する。彼は〈殺し〉を隠して穏便に生きる欺瞞に堪えられない。神の正体を暴くためには、まずは自らの犯罪を暴いてみせなければならない。シンは、二人の女の頭上に斧をふり下ろしたラスコーリニコフと同様、ドール殺しに〈罪〉を感じることはできなかった。否、ラスコーリニコフは〈罪〉の意識に襲撃されないことに苦しんだが、シンはそんなことに苦しむことはなかった。
 では、なぜシンは〈告白〉の衝動を押さえることができなかったのか。彼はカラヴァンを相手にしているのではない。カラヴァンを代理の相手として〈神〉を問題にしているのだ。神の存在は認めないが、〈神の手〉を信ずるというシンの告白の仕方にはニコライ・スタヴローギンの匂いがつきまとっている。詳しく語ることはできないが、玄月がこの小説でドストエフスキー的な問題(神の問題)を追究していることは確かである。「神はそれを望んだのか?」。まさに神はシン(ノブオ=信男=信ずる男)の信仰を望んだのだ。この小説は現代〈在日韓国〉版『罪と罰』と言ってもいい問題作である。
(「図書新聞」2002年11月9日)