清水正の文芸時評 綿矢りさ「蹴りたい背中」

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 第3回

綿矢りさの「蹴りたい背中」を語る。
2004年6月3日清水 正


2004年5月28日(金曜)
 去る2004年5月14日、我孫子にある白樺文学館の面白倶楽部で綿矢りさの「蹴りたい背中」の座談会をやるというので、文芸学科助手の山下聖美さん、大学院生の栗原隆浩君、芸術学部の学生6人(福永恵妙子、石川彩乃、小沼章子、渡辺陵平、浅野茜子、福岡尚志)ばかりに声をかけて行ってきた。我孫子高校の生徒たちも来るということだったので、現役の高校生がこの小説をどのように読んでいるのか、そういった事も興味があって行ったのだが、どういうわけか地元の高校生はおろか、若い人は司会をつとめた二人の女子学生しかいなかった。
 わたしがこの「蹴りたい背中」を読んだのは前日の13日で、一気に読んだ。十九才で芥川賞を受賞したということで、いやでもこういったニュースは耳に入ってくるし、いずれ読もうかとは思っていても、ほかに読む本はたくさんあるし、書かなければならない原稿はあるやで、なかなか読むことができなかった。それに、十九才の二人の女の子が芥川賞を同時受賞したという事は、何か文芸ジャーナリズムの商業戦略のような気もして、それに安易に乗るようで嫌だな、という感じもあった。しかし、白樺文学館には学生を何人か連れて参加する事を約束していた手前、とにかく読み終えなければならなかった。
 最初の一行に「さびしさは鳴る」とあって、おやこれはあんがいいけるかもしれないと直観した。一昨年、遠藤周作の「沈黙」を批評していて思ったのは、彼が実に耳のいい小説家という事だった。この地上の世界は不条理に満ちている。にもかかわらずなぜ神は沈黙し続けるのか。これが主人公ロドリゴの最大の疑問である。もちろんこの疑問は作者遠藤周作の疑問でもある。主人公も作者も神の〈沈黙〉の声を聞こうとしている。そのためには限りなく耳をすましていなければならない。こういった人間は孤独である。
 「蹴りたい背中」の女主人公ハツもまた孤独だ。ハツは決して他者や世界に対して心を閉ざしているのではない。極端な言い方をすれば、全開している。心を他者や世界に対して全開しているにもかかわらず、ハツは一人きりなのだ。
 高校に入学してからまだ二ヵ月しかたっていない時点から小説は動き始める。ハツは中学時代の絹代からも見捨てられ、クラスの中で疎外された位置にある。しかし、一読してハツがその疎外に苦しんでいるようには思えない。ハツが望んでいるのは、まさかクラスの仲間とうまくやっていこう、などという事ではないだろう。
 ハツはにな川という、もう一人の〈余り者〉と仲良しになる。にな川は「脱け殻状態」の猫背で雑誌を見ていたり、「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息をついた」り、「がらんどうの瞳」でハツを見たりする。このにな川がハツを自分の部屋に招待する。ハツはなぜ招待されたのか分からない。絹代は「ほれられたのかもね」と呑気に笑ったが、ハツはそんな事を真面目に信じてはいない。
 にな川はオリチャンというファッションモデルの大ファンで、「死ぬほど好き」とハツに打ち明ける。ハツは「にな川にとって、私は“オリチャンに会ったこと”だけに価値のある女の子なんだ」と思う。ハツはにな川にだけは「気楽に声をかける」事ができる。二度目ににな川の〈離れ部屋〉を訪れた時、ハツは「ここは時間を忘れさせるタイムカプセルのような部屋だ」と思う。にな川はオリチャンのラジオが始まるとCDラジカセの前に座ってイヤホンをつける。ハツはにな川の背中を見ながら「彼の社交は幼稚園時代くらいで止まっているのかもしれない」と思う。


  この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。
  瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。(60)


 蹴りたいと思った瞬間に蹴っている。これがハツだ。にな川はオリチャンのラジオに夢中で、ハツには何の配慮もない。ハツとにな川は同じ部屋にいても一人と一人で、心と心が繋がっていない。が、今、ハツがにな川の背中を蹴り、足の裏に背骨の確かな感触をおぼえ、にな川が背中に痣がつくほどの痛みを感じた事で、二人は繋がったのだ。
 夏休み前の授業中、ハツは頬杖をついて「背中を蹴った時のあの足裏の感触を反芻しながら」教壇のすぐ前の席に座っているにな川を見つめる。ハツは目だけは冷静ににな川を観察しているが、身体は熱くなってくる。この“冷えのぼせ”状態でにな川を見つめる事にハツはなんとなく罪悪感を感じる。
 にな川が四日ほど学校に来ない。ハツは「お見舞い」ににな川の部屋を訪ねる。登校拒否の噂もあったが、単なる風邪だった。にな川は相変わらずオリチャンに夢中だ。ハツは「心がかすかすになっていくような急激なむなしさ」におそわれる。ハツはにな川から盗んだオリチャンの〈つぎはぎ写真〉を畳の上に置く。にな川は、ぱっと顔を輝かせる。


  ちぐはぐな反応。こんな物を見られて恥ずかしがりもしない、盗った私を怒りもしない。ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップブックに挟む彼を見て、ぞっとした。まるで私なんか存在しないみたいに、夢中になって写真を眺めて、もうこっちの世界からいなくなっている。こんなことを繰り返していたら、いつかこっちに戻ってこられなくなるんじゃないか。思わず彼の腕を掴んだ。(98)


 〈おたく〉と言われている人種がいる。何か一つの事に夢中になっていて、他の事には目もくれないような人達の事だ。自分に関心のある事に関しては異様に詳しいし、金にも糸目もつけない。こういった青年を前にすると蹴っ飛ばしてやりたいと言った参加者(石川彩乃=文芸学科三年)もいた。わたしは冗談半分に、日芸の文芸学科に入ってくるような男子学生の背中はみんな「蹴りたい背中」を持っているし、女子学生はみんなハツのようにこういった背中を蹴りたい衝動に駆られるんじゃないかと言った。
 なぜ、ハツはにな川の背中を蹴ったのか、なんて聞いたって、ハツはそれを論理的に答える事はできないだろう。言葉ではよく説明できない感覚をハツは生きている。それは高校一年生ぐらいの女の子なら、だれでも体験するふだん抑制されている性的な衝動の発露と言っていいかもしれない。


 小さい桃のかけらを口に含むと、舌を包み込むような甘さが口に広がった。
 「痛。」桃を食べたにな川が、顔をしかめた。
 「どうしたの。」
 「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった。」
  鼻がつまって口呼吸をしているせいか、にな川の唇は乾燥してひび割れていた。さぞかし、染みるんだろう。唇に親指をあてて眉をしかめている彼を見ていたら、反射的に口から言葉がこぼれた。
 「うそ、やった。さわりたいなめたい、」ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。血の味がする。
  にな川がさっと顔を引いた。
 「痛い。何? 今の。」
  怪訝な表情をして、親指で唇を拭く。さらにパジャマの袖でも拭いている。その動作を見ているうちに、やっと自分のしたことが飲み込めてきた。顔は強張り、全身の血がさーっと下がっていく。どんな言い訳も思いつかない。(101 )


 「さわりたい」「なめたい」なんて実に露骨な言葉だが、句読点を付けずに書くことで、その露骨さが消えている。それにしても、ハツは思った時には行動を起こしている、衝動性のかった女の子である。
 面白いのはにな川の反応である。彼は「長谷川さんの考えてることって全然分からないけど、時々おれを見る目つきがおかしくなるな。今もそうだったけど。」おれのことケイベツしてる目になる。おれがオリチャンのラジオ聴いてた時とか、体育館で靴履いてた時とか、ちょっと触れられるのもイヤっていう感じの、冷たいケイベツの目つきでこっち見てる。」と言う。ハツは「違う、ケイベツじゃない、もっと熱いかたまりが胸につかえて息苦しくなって、私はそういう目になるんだ」と胸のうちで呟く。思春期の男と女の生理感覚の違いと言おうか。ハツの中に生まれた〈熱いかたまり〉をにな川はきちんと受け止める事ができない。生理感覚の次元でのすれ違い。男と女はいつもこのすれ違いによって悩み傷つき、出会いと別れを繰り返す。
 にな川はオリチャンのライヴに一緒に行かないかとハツを誘う。ハツは絹代を誘ってライヴに行く事を承知する。ライヴ当日、にな川は今まで見せた事のない情熱で舞台に近づこうと人ごみを押し退けて進む。観客が舞台上を見ているなか、ハツは息を呑んでにな川を見つめている。にな川は自分が消えてしまいそうになるくらいにオリチャンを見つめている。ハツはにな川の耳もとで「あんたのことなんか、オリチャンはちっとも見てないよ」と囁きたくなる。絹代は明るい声で「にな川ばっかり見てないで、ちょっとはステージも見たら?」「ハツは、にな川のことが本当に好きなんだねっ。」と言う。ハツは、絹代が口にした〈好き〉という言葉と、〈にな川に対して抱いている感情〉との落差にゾッとする。
 ライヴが終わって外に出ると、すっかり夜になっている。オリチャンを出待ちするファンが楽屋口に走る。にな川も彼女達を追って全力で駆けだす。にな川の目は血走り、ひたすらオリチャンを待つ。ついにオリチャンが出てきた。熱狂的な歓声が上がる。にな川は彼の前に立ちふさがっている女の子を強い力で押しのけながら前に進む。ハツは「自分の膜を初めて破ろうとしている」にな川を遠くに感じ、足がすくむ。にな川はスタッフに人だかりからひっぱり出され、厳重な注意を受ける。にな川は〈がらんどうの目〉をして放心している。ハツは「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」と思う。
 電車には間に合ったが、もうバスはない。ハツと絹代はにな川の部屋に泊まる。にな川は「ベランダに寝る」と言って外に出る。絹代は風呂に入り、ハツもシャワーを浴びる。絹代は冷蔵庫を開けてヨーグルトを食べる。蒸し暑いのでクーラーをオンにする。絹代は「にな川がオリチャンのところに走っていった時のハツ、ものすごく哀しそうだったよ。」と言う。ハツは「私の表情は私の知らないうちに、私の知らない気持ちを映し出しているのかもしれない」と思う。午前三時半、ハツは眠いのに眠れない。にな川はまだベランダから戻ってこない。クーラーがきき過ぎて、足の裏が冷たい。ハツはリモコンを探してオフのスイッチを押す。稼動音が止まり、絹代の寝息だけがかすかに聞こえる。裸足でペランダに下りると、にな川は「何かから逃れるように身体を小さく丸めて、ぐったり」している。クーラーの室外機の羽根がまだくるくると回っている。ハツは「夜から今までの間、ずっとここから強烈な熱風がにな川に吹きつけていたんだ」と気づく。ハツはにな川の隣に座り、黙って外を眺める。ハツは「同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気を青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ」と思う。
 にな川は「オリチャンに近づいていったあの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた。彼女のかけらを拾い集めて、ケースの中にためこんでた時より、ずっと。」と言い、ハツに背を向けて寝ころぶ。ハツの内部に「いためつけたい。蹴りたい」という、愛しさよりも強い“あの気持ち”が立ち上がってくる。足をそっと伸ばして爪先を背中に押しつける。親指の骨がぽきっと鳴る。背中をゆるやかに反らしながら、「痛い、なんか固いものが背中に当たってる」。「ベランダの窓枠じゃない?」。
  にな川は振り返って、自分の背中の後ろにあった、うすく埃の積もっている細く黒い窓枠を不思議そうに指でなぞり、それから、その段の上に置かれている私の足を、少し見た。親指から小指へとなだらかに短くなっていく足指の、小さな爪を見ている。気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、吐く息が震えた。(140 )
にな川はオタクで、石川彩乃さんはこんな男は殴ってやりたいと言って場を笑わせた。確かににな川は煮え切らない男で、こんな男をはなから相手にしないしない女の子も案外多いだろう。しかしオタクとはいったい何なのだろう。かつて革命幻想に酔って内ゲバを繰り返した革命戦士も、何かに夢中になっていたという点では同じであろう。否、決定的に違うのはにな川に見られるオタクは革命戦士などよりはるかに覚めた〈視点〉を内に抱えこんでしまっている事である。
 にな川は机の下にオリチャンの雑誌や写真をため込んでいたし、ライヴでは人の群れをかき分けて乱暴に前に進み、スタッフから手厳しく注意された。にもかかわらず、わたしの目には彼はオリチャンに熱中している〈ふり〉をしているように見える。そればかりではない。にな川はハツが自分の背中を蹴った事も知っていて、知らない〈ふり〉をしているように見える。にな川は一見、自分の意志がないように見えるが、オリチャンに熱中して見せる〈意志〉はあるし、知らんぷりをして見せる〈意志〉もある。クーラーの室外機からもれる熱風に一言も文句を言わない〈意志〉も持ち合わせている。にな川の性格は、我慢強いとか、男らしくない、とかいう言い方では括れない。何か、生まれた時から途方もない〈虚無〉を抱え込んでしまっているようにさえ思える。
 ほんの少しばかりものを考える力や想像力があれば、現代に起きている様々な事象(世界各地で起きている紛争、戦争を含めて)に虚無的な眼差ししかおくれないのは余りにも当然である。現代においては、何が〈正義〉であり、何が〈悪〉なのか、さっぱり分からなくなっている。小学校の教師が弱ったウサギを穴に埋めるのは〈悪〉であり、製薬会社が目薬の開発にウサギを実験用に殺すのは〈正義〉なのだ、などと説明される事ぐらいバカバカしい事はない。
 第二次世界大戦後に生まれたわたしですら、ベトナム戦争湾岸戦争、そしてイラク戦争を経験している。もちろんこの〈経験〉は生の経験ではなく、様々なメディアを通しての間接的経験であるが、しかしそれにしても人間は絶え間なく〈殺し合い〉を続けながら、同時に〈愛と平和〉を声高く唱える存在でもある。まったく飽き飽きするしうんざりだ。
 ハツもにな川も、今さら革命幻想に酔う事はできないし、サリン事件の後では新興宗教に没入する事もできない。そんな白けきった時代の中で、精一杯夢中になれるのが、オリチャンであったりするというのが、実に泣けるところである。にな川はハツに背中を蹴られても、その押された力でどこか新しい世界へと踏み出していけるわけでもない。ハツもまた初めからにな川にそんな〈建設的な事〉を期待しているわけではない。二人はかろうじて、相手の背中を蹴る足の指と、蹴られる背中を持ち合わせていたに過ぎない。彼ら二人が、かろうじて信じられるのは蹴った足の指が感ずる背中の骨の感触であり、蹴られた背中が感じる相手の親指の感触だけである。
 ハツは自分の蹴りたい衝動を誰にもうまく説明する事はできないだろう。うまく説明された感情などいつも信用がおけない。ハツはにな川に説明しないし、にな川はハツに説明を求めないだろう。そんな事を求めたりするのは〈詩〉の何たるかを解さない愚か者だけである。
 にな川の背中を蹴るハツの気持ちがまったく分からない、という年配の人がいる。今の若い者の考えている事は分からない、という次元の話はいつの時代でも繰り返されてきた。しかし、若いとか年寄りとか、男であるとか女であるとか、そういう事を超えたところに文学や芸術作品はある。三才の女の子が泣いている。この子供の悲しみを五十才の男性が理解できないというのであれば、文学や芸術の存在価値はないだろう。ハツのような女子高校生を嫌いだというのならまだ分かる。しかし理解できないというのは問題である。
 世の中には、歳をとるに従って感性が鈍くなり、ひとの気持ちが分からなくなってくる者がある。わたしはそういった人達を〈魂の肝硬変〉にかかった者と言っている。尤も、歳に関係なく、もともと感性の鈍いひとはいる。「戦艦ポチョムキン」を観て感動のあまり大声を発する者もあれば、寝入ってしまう者もある。感性の違いはどうしようもない。
 「がらんどうの瞳」で「何もない所をじっと見つめている猫のように無表情」なにな川と、そんなにな川になんとなく惹かれていくハツ、二人は並んで同じ世界を見ていても、本当には分かり合えない。お互いに向き合って黙って強く抱き合えば、「世界はふたりのために」なんて幻想に酔えた時代はとっくに過ぎた。「気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた」・・その震えたハツの〈はく息〉を、にな川が〈気づいていないふり〉をして、蹴った足指の、小さな爪を見つめている。
 「蹴りたい背中」は一篇の詩である。強く抱きしめ、溶け合いたい、そんな気持ちをストレートに行動に移せない。にな川を強く抱きしめたからって、彼の〈がらんどうの瞳〉に光が射すわけではない。にな川とハツは少女漫画の世界を生きているわけじゃない。にな川とハツの間にある、蹴っても、蹴っても、決して縮まらない絶対距離、読者もまたこの絶対距離を縮める事はできない。
 白樺文学館での座談会を終え、わたしたち日芸一行は夜道を我孫子駅へと向かった。散歩気分で賑やかに話をしながら歩いたが、わたしはにな川とハツの間にある〈距離〉を彼ら学生諸君のうちにも感じた。「ひとり ひとりで ひとり」・・この孤独の直中からひとの魂を震わす作品は生まれてくる。