野本博 文学に係わる者の使命(2)

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

文学に係わる者の使命(2)
野本博

 
二冊の著書
  
ドストエフスキー宮沢賢治
 
清水先生が大変な読書家で、ご自身が執筆された膨大な ページ数の著書も多数あることは以前から承知していたが、 かつての上司とのこの出会いがきっかけとなり、私を編集協 力者として清水先生の著書を出版することが決まり、平成十 八(二〇〇六)年にその出版社から先生の一冊目の著書『ウ ラ読みドストエフスキー』が刊行されたのである。これは今 から思うと何とも幸運な出来事であった。人間と神の問題を 徹底的に見つめ、二十一世紀の預言書とも言うべきドストエ フスキーの文学に仕掛けられた数字や時間の謎を大胆に読み解くこの衝撃の書は、大変好評で、同じ出版社からもう一 冊、清水先生の著書を出版しようという流れにつながった。 それが平成十九(二〇〇七)年に出版された、宮沢賢治の童 話に描かれたエロスと数字の謎を独自に解明しようと試みた 『ケンジ・コードの神秘』である。
 
清水先生は昭和二十四年のお生まれ、私は昭和二十三年。 同じ団塊世代の人間として、大学では学生運動史上、未曽有 の大闘争を繰り広げた、あの日大闘争を経験するなど、共通 の話題も多く、また先生は、長塚隆二先生(日芸のフランス 語の教授)の後を継いで自動車部の部長を務めていただくと いうご縁もあり、この二冊の本の著者と編集者としての関係 がスタートとなり、以来、親しくお付き合いをさせていただ くようなったわけである。
 
伊香保で聴いた「連絡船の唄」
 
清水先生との個人的なお付き合いとしては、平成十八(二 〇〇六)年に三泊四日の韓国旅行に同行させていただいたこ とがある。メンバーは清水先生を中心に、山下聖美先生など の教員や職員の方、それに文芸学科の卒業生や日芸の大学院 を終えられたりした方たちである。旅行中は日芸と韓国の大 学との親密な意見交換会が行われたり、日本と韓国の出版事 情やその違いなどについて、活発な議論が繰り広げられた。

市内観光を終えた夜は、居酒屋でマッコリと焼き肉に舌鼓を 打つなど、私にとって日頃の仕事の疲れを忘れさせてくれる ありがたい旅であった。たまたま入った大きな書店で、韓国 語版の清水先生の著書を見つけた時は、私自身、大いに興奮 したものである。また、平成二十二(二〇一〇)年に、自動 車部の行事として新入部員の歓迎会が群馬県伊香保で行わ れた時は、OBの一員としてその参加メンバーにも加えてい ただき、徳冨蘆花記念文学館や自動車博物館、林芙美子文学 館などを新入部員の皆さんとともに見学した。
 
伊香保での夜は旅館「金太夫」で。夕食を済ませた後、 我々は館内のカラオケ・ルームへ移動。ここでは清水先生が マイクを握って唄う姿を初めて見た。曲はたしか菅原都々子 の「連絡船の唄」ではなかったかと思う。先生が哀調を帯び た独特のシブい低音で切々と歌い上げるこの「連絡船の唄」 は、まさに絶唱であった。
 
私の手元に菅原都々子のCDがあるが、その解説書を読む と、この「連絡船の唄」は昭和二十六(一九五一)年のヒッ ト曲とある。昭和二十六年と言えば清水先生はまだ二歳であ る。まさか二歳でこの歌を覚えたとは考えられない。では、 いったい先生はどこでこの歌を覚えたのだろうか?     清水先生の昨年八月のブログにこんな記述がある。 「ここ一週間、動画で田端義夫の歌を聴いている。かえり 船、大利根月夜、ふるさとの灯台、雨の屋台、どの曲も心に染みる。バタヤンの歌は日本人の魂にやさしくせつなく響い てくる。」と。
 
謡曲好きの私にはよく分かる。何より田端義夫と菅原 都々子の歌には、日本人の感性を揺さぶるセンチメントな情 感が共通するのである。テレビのない時代に育った団塊の世 代の人間にとっては、おそらくは小学生の頃、ラジオから流 れてくる菅原都々子の歌声に魅了され、そのメロディが少年 の心に忘れがたく深く染み入ったのではないだろうか。