近藤承神子の最初の清水正論

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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相変わらずの神経痛で一日横になって過ごすことが日常となってしまった。痛みは左腹部なので、抱き枕を抱えて横になっている。睡眠はどのくらいとっているのだろうか。眠りにおちても痛みですぐに覚醒してしまう。あっという間に一日が過ぎ、痛みにかまけていると何もできない。
 先日、近藤承神子さんからながいこと行方不明になっていた「るうじん」(創刊号 特集ドストエフスキー)が送られてきた。これは本文16頁の小雑誌で近藤さんが編集していた。昭和48年4月1日に豊島書房から創刊された。ここにわたしの「意識空間内分裂者による『分身』解釈」が掲載された。三回ほど連載された。
 近藤さんはわたしの処女本『ドストエフスキー体験』(昭和43年1月 清山書房)を最初に評価してくれた人で、豊島書房からこの本の増補改訂版『停止した分裂者の覚書──ドストエフスキー体験──』を出してくれた。近藤さんは「るうじん」創刊号に北条院二三男の筆名で「清水正氏とドストエフスキー」を書いている。近藤さんがドストエーフスキイの会の会報10号に書いた「第九回例会印象記」は、わたしが東京厚生年金会館で発表した「『罪と罰』と私」(1970年6月10日)の印象記であるが、これは今や伝説と化している。一方「るうじん」に掲載された「清水正氏とドストエフスキー」はわたしとドストエフスキーに関する最初の論であるにもかかわらず、その存在を知る人は意外に少ないと思われる。それで当ブログにおいて掲載することにした。
四十五年前に書かれたものである。

清水正氏とドストエフスキー
北条院二三男

 一度でもドストエフスキーにとらわれた者なら、彼の作品が明治以後の日本文学者の上に少なからぬ影を落としてきた事実を御存知の筈である。しかし多くの作家が彼の作品に影響された事実はあっても、そして熱狂的な心酔者を幾人となく生んだ事実はあっても、それぞれの時代状況はより強く作家達をとらえていたのであって、作家達にとってのドストエフスキーとは、その時代の渦中に押し流される自己をせき止めるためのヒントでしかなかった。ドストエフスキーが日本に紹介されて以後、今日に至るまで幾多の評価変遷があったということがその証左である。既に新しい時代状況の到来のなかで、次々に旧来のドストエフスキー作品に対する認識理解は妥当性を失いつつある。
 それでは今日の時代に対応する評家は誰かと問われれば、私はそれが清水正氏であると答えたい。しかし氏のドストエフスキーに関する著述が、単にドストエフスキーをヒントにした時代状況の解釈を目的にしたものでないことは勿論、ドストエフスキー理解に新解釈を打ち出したという点にその評価を認めるということも誤りである。事はもっと重大なのだ。氏はドストエフスキーを現代に降臨させてしまった=といえば、大方の失笑を買うであろうが、しかし事実である。
 調和と安寧を文学に求める者に、ドストエフスキーの作品は最も不快な読物である。またドストエフスキーの悪夢のような作品世界に泳いだ者も、やがては陸をこがれ、調和のうちに悪夢のしめくくりを図るのだが、清水氏は初めからこの調和を拒絶した上で悪夢の中に同化してしまった。氏はそこで氏の日常をドストエフスキー体験として称して記述するのであるが、恐らく多くの読者はあまりの肌触りの悪さに眉をしかめることだろう。
 だが一度でもドストエフスキーの悪夢にうなされた経験を持つ者なら、清水氏の記述のそれに、かつての悪夢をまざまざと甦えらせるに違いない。単なる心酔者の記述ではない。この悪夢は、調和の中の混沌、混沌の中の調和を自ら一義的に統一しようとして自己がその選択に迫られるというところから発するものではなく、あい反する両極を呑み込んで、しかもそれぞれの極を可能な限り伸長させるという「分裂」の覚悟がもたらすのである。その覚悟によって氏の論考はこれまでの無神論的な、或いは求神的なドストエフスキー論を超えてしまった。これまで見せたことのないドストエフスキー論が清水氏によって現代を闊歩しはじめた。降臨とはこの意味である。
 こうした清水氏の作業は、もはや時代状況の説明にとどまらない。時代を体現し、人間存在の根源を主張しているのである。以上のことは『貧しき人々』に始まり『分身』へと続く氏の最近の初期作品に向けたアプローチを読むことによって了解いただけるだろう。しかしそこで問わねばならぬ。果して何人の無神論者が氏と共に「分裂」を引き受けられるか。また信仰的なドストエフスキー理解に組する方々も問うてもらいたい。果してその理解が清水氏の存在をも吸収し得る程に妥当性を持っているかと。


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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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