動物で読み解く『罪と罰』の深層

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江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第8回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正




失楽園』の神とサタンはまさにドストエフスキーがドミートリイの口を通して言わせた、広すぎるくらい広い人間の心に内在する〈神〉(бог)と〈悪魔〉(черт)である。ドストエフスキーの場合、この〈神〉と〈悪魔〉は決着のつかない永遠の戦いを続行しなければならない運命にあるが、ミルトンの場合は神の勝利を前提にした戦いということになる。
 サタンの言葉を引こう。

 思うに、支配するということは、充分野心の目標たりうる、―たとえ、地獄においてもだ。天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!(上・21)

 サタンの野望は支配であり、自由である。神のもとにあって大天使としていくら優遇されようとも、神の支配下にあることは間違いない。サタンは神の配下にあること自体に我慢がならない。とうぜんサタンの内には神を打倒し、神に代わってすべてのものに対する支配権を獲得しようとする野望が煮え立つ。そして遂に反逆の時を迎え、全力を尽くして戦った結末が敗北であり、地獄への追放であった。しかし神を絶対的な存在と見なさないサタンは、さらに反逆の牙を剥かずにはおれない。サタンは奴隷の安穏よりは地獄での自由を求める。自分の力を頼むサタンは、心持ち次第で地獄をも天国に劣らぬ世界へと変容させることができると思っている。サタンは神を恐れぬ英雄であり、一度や二度の敗北によっては、神の意志(怒りと寛容)を受け入れることはない。まさにミルトンのサタンは神を殺害した後の現代人にふさわしい英雄とも見える。このサタンはドストエフスキーの人神論者よりも冷徹な、謂わばニーチェの反キリスト者の虚無と絶望を経た超人の如き神への反逆者、ないしは神を見下す傲慢者の貌を備えている。サタンをミルトンの前提(神の全知全能性)から解放すれば、彼は無傷のままに現代に蘇るであろう。
 サタン軍には誇り高き者が揃っている。笏を持った王モーロックもその一人である。ミルトンは次のように書いている。

 彼こそは、天において戦った天使のうち最も強く、最も獰猛な者であったが、今では絶望の余りさらに獰猛になっていた。そして、力において永遠者と同等と認められていると確信し、もし永遠者より劣るなら、むしろ生存しないことを願っていた。生存の意欲が失われると共に、恐怖心も全く失われていた。(上・57)

 モーロックは〈悔改め〉を断固として拒み、永遠者(神)に対する〈公然たる戦い〉を主張する。サタンもモーロックも、自分を神と同等の力を備えた者として認識している。神との戦いに敗北したことを必然ではなく偶然として捕らえている。彼らは自分を王として、本来は永遠者として崇められ奉られる存在と見なしている。従って神との戦いに敗北したことの衝撃は大きかったが、しかし彼らの不撓不屈の精神は今再び神と一戦を交えることを決意させる。サタンにしろモーロックにしろ、彼らは自分たちが神よりも劣るなどということを認めることは絶対にできない。それを認めるよりは死を選ぶというのが彼らのプライドなのである。
 それにしても神の国にあっては大天使であった彼らは、いったい何が不満で反逆行為を起こしたのであろうか。天使もまた人間と同じように神の被造物でしかないのなら、創造者に反逆を起こしても初めから勝ち目がないのは当然ではなかろうか。『失楽園』の神が『創世記』の全知全能の神と同様の性格を賦与されているなら、この神はすべてをお見通しの上でサタンたちの反逆に立ち向かっていたと言えよう。この神は反逆者サタンたちに、彼らが神と同等の力を備えていると確信させるほどの余裕を持って戦いに望んでいる。傍目には接戦に見える激戦(読者にとってはスペクタクル映画を観るようなハラハラドキドキの戦闘シーンが続く)を演出し、存分に楽しんでいるのが『失楽園』の神である。もしミルトンが神の絶対性という前提を払いのけていれば、まさに神とサタンたちの戦いは文字通りの激戦となったであろう。
 わたしたちが読んでいる『失楽園』の神は、プロレス興業における、絶対的立場を保持するプロデューサーの如き存在で、レスラーたちは彼の書いたシナリオ通りに事を運ばなければならない。サタン軍の闘将たちも、見えざる神のシナリオ通りに考え、行動しているに過ぎないのだが、彼らはこの神のシナリオを意識するようには設定されていなかった。その意味でサタンたちは、神の意志によって創造された被造物であるにも関わらず、自分たちには誰にも侵すことの出来ない自由意志が備わっていると確信している傲慢な現代人にも通ずる人間臭さがある。おそらく『失楽園』の読者を魅了するのは人間くさい欲望、反逆精神に満ち溢れた自由人サタンの精神世界とその大胆不敵な行動力であって、永遠の座に君臨する神ではない。
 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(666)は、本文において最初の〈踏み越え〉(殺人)をなすことはできたが、その後〈踏み越え〉の重荷に耐えきれずに苦しむ。この〈苦しみ〉は二人の女の頭を叩き割ったことに対する〈罪〉意識の襲撃ではなく、自分が〈非凡人〉ではなく〈凡人〉の範疇に属する人間であることを認めざるを得なかったことに起因する。つまりロジオンは彼の名前が示すような〈薔薇〉(美・力・聖)、〈英雄〉、〈太陽〉でもなければ〈非凡人〉(ナポレオン=666)でもなく、単なる凡人としての〈殺人者〉でしかなかった。この無罪意識に苦しむ〈殺人者〉(убийца)で〈神の冒瀆者〉(богохульник)ロジオンが、〈淫売婦〉(блудница)で〈狂信者〉(юродивая)ソーニャの信じる〈神〉(бог)の愛に包まれることで『罪と罰』は幕を下ろすことになる。
 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは〈神〉に反逆し、徹底して戦う〈蛇〉(змей)でも〈竜〉(дракон)でも〈獣〉(зверь)でもなく、〈悪魔〉(черт)に誘惑されて殺人を犯してしまった臆病な思弁家であり凡人であり、最終的にはマルメラードフやソーニャの信じる〈神〉に帰依することになった。ロジオンという、作者によって額に悪魔の数字を刻印されていた青年は、殺人後、分裂した意識と葛藤にもがき苦しむが、結局は〈神〉の愛と赦しに包摂されて物語の舞台から去っていく。が、このことで『罪と罰』における〈神〉の問題がすべて解決したわけではない。

 引用テキストは『聖書』(新改訳聖書刊行会)、『カラマーゾフの兄弟』(江川卓訳 集英社 愛蔵版世界文学全集19)、『罪と罰』(米川正夫訳 世界文学全集18 河出書房新社江川卓訳 岩波文庫。一部私訳)、『失楽園』(平井正穂訳 岩波文庫)に拠った。




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