五十嵐綾野  風と私と

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2018-11-23 「ドストエフスキー曼陀羅」展 記念写真

 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

風と私と
五十嵐綾野

 

清水先生のドストエフスキー論執筆五十周年というのは私 にとって感慨深いものだ。五十年もの間ひたすら書き続け走 り続けている姿はとても眩しく私の目に映るし勇気が出る。 そのうちの十年近くを日芸の学生として時にはTASとして 清水先生の側で学べたことは私の宝物である。
 
清水先生の講義は、参加型である。全員でテキストを音読 したり、その役を実際に演じたりする。卒業してから何年も 経つというのに、「まなづるとダァリヤ」や「チーコ」のセ リフや演技がふっと浮かんできたりする。多分、これから先 もずっと覚えていると思う。
 
初めて清水先生の講義を受けた所沢校舎の日の当たる教室 が懐かしい。作品に対する情熱と言葉を吟味し作品のウラ側 を想像する楽しさ。難しさ。想像力が足りないせいで感じるもどかしさ。作者の闇と社会の汚さ。それらが大きな風と なって教室中を吹き荒れる。
 
寝ないで好きなだけドストエフスキーを読んだり、課題の ためのレポートを書いたり、時間がたっぷりあった学生時代 を過ごした私だが、今では教える側になり毎日が慌ただしく 過ぎていく。外国人に日本語を教える仕事について十年弱。 まだまだ駆け出しである。
 
日本語の授業というのは、いかに学生達に発話させるかが ポイントになる。そこで役に立っているのが、清水先生のテ キストを音読したり演技したりする参加型の授業である。日 本語を教えるといってもただ単に、語彙を導入したり文法を 教えるだけではない。どんな時に、どんな場面で、どんな人 と使うのか教師がはっきり示さなければならない。だから必然と教師は役者になる。
 
清水先生の風に吹かれていつの間にか成長したのだろう か。「指されたら嫌だなぁ、演技どうしよう。」なんて思いな がら下ばかり見ていた私が大勢の学生の前ですっかり役者に なっているのだから。
 
あちらとこちら。当然立場が変わると見えるものも変わっ てくる。清水先生という風は私には心地よく感じられた。し かし、風は時には嵐を巻き起こす。受け取る側によってはと んでもない方向に飛ばされる危険性もある。
 
無邪気に笑い慕ってくれる学生は可愛い。教壇に立つとつ い、あれも教えてあげたい、こんな世界を見せてあげたい、 と思うことがある。しかしこれは、全ては許されている、と いうことに繋がるのではないか。恐ろしいことである。日本 語のテキストの例文はいつも同じ。「日本は便利できれいな 国です。」果たして?
 
日本という世界から見ても刺激的なものに満ち溢れている 魅力的な世界。裕福な環境で生まれ育って、遊び半分で来て いる留学生はまだしも、そうではない、留学する費用すらな く借金までして様々な問題を背負っている留学生はどうだろ う。どう映るのだろう。日本で稼いだ一万円が国のお金で十 倍の価値があることだってある。
 
実際、留学生の犯罪に巻き込まれる事件は増えている。悪 質なブローカーや仕事の雇用主。日本人が驚くほど悪いケースもある。それでも、留学生は皆口をそろえて言う。「先生、 大丈夫です。日本は安全で親切な国ですから。」
 
私は私の中で常に二律背反する「何か」と上手に生きてい かなければならない。ドストエフスキーの描く世界と同じで あることに気付かされる。時には妥協も必要だ。私はどんな 風を教室で吹かせればいいのだろう。どうすれば?   自分で 辻褄を合わせていくしかない。そう思いながら、今日も学生 たちが待つ教室のドアを開く。

(いがらし・あやの    日本語インストラクター)