松原寛


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。


「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


清水先生の松原寛に関する文章を読んだ感想
高橋寛


 私が日藝に入学した3年前、大学紛争に関することが初めて先輩から語られた場は、サークルの飲み会であった。当時私は歌舞研に入っており、そこの新歓の飲み会で既に大学紛争に付いて語られたと思う。大学紛争は日藝発祥、という様な話も聞いたことも有るが、日藝の裏では大学紛争の歴史が色濃く残っているのだという事を私は察した。他大はわからないけれども清水先生が興味を示さなかった大学紛争は大きな出来事として脈々とサークル内では語られているのだと言う事を知って、私はそっとサークルをやめた。大学紛争の事を語っているから辞めた訳ではないが、日藝出身の先生以外の授業ではあまり語られる事の無い事実を知って、私はサークルを後にした。
 私が日藝に入ったのも完全に偶然と言うのか、神様のお導きと思えるところがある。本当は、私は他の音大に入学予定だったし、日藝は受けるつもりは無かったのだが、色々なトラブルや出来事が重なって、たまたま受ける事になった。日藝にはOCに一回行った程度で、説明会には一回も言った事が無く、受験の時初めて田代先生と楊先生にこんにちはをした。しかしそこで田代先生に思う事が合ったのと、親の勧めで日藝に入学する事にしたのだが、結果的にとても良い事が沢山起こり、入ってよかったと心から思っている。
 清水先生のように江古田でなにかに掴まれた訳ではないが、日藝に何かしら運命的な縁を感じたのは同じである。
 授業で「思い込み」について話したが、私の中に「清水先生はピュアである」という思い込みがある。先生自身は『自分は変わり者だと思われている、独断と偏見に満ちている』と語っているが、私はそうは思わない。ドストエフスキー愛に忠実な、自分に正直で、自分の研究を全う出来る強さがあるだけではないかと思う。少なくとも清水先生のドストエフスキーの批評を読んだ時に思ったのは、実際の授業で生徒をいじってからかっている時の先生よりか、本に表れている先生は、とてもドストエフスキーが大好きで、自分の意見をうまく伝える事に長けていて、どんな馬鹿にでも分かる様な難しい事を優しく噛み砕いて文章にして伝える、読者への優しさや真心がある事が伝わって来た。私的には確かに意見が違う所もあるのだが、清水先生が仰っているドストエフスキー論も「確かに一理あるな」と思うので、反旗を翻すようなことはしない。「絶対に違う」とは言い切れない。今刊行されている先生のドストエフスキー全集が若い時に書かれた物なのかは分からないが、「ああ。こういう考え方もあるんだな。」と受け入れてしまうと言うか、ともかく全否定をする気にはなれない。先生と生徒・女と男・年齢の差という違う視点での考え方の相違は出てくると思うが、基本的にそんなに強く「これは違うでしょう」と言えるだけの読み方をしていないせいもあるかもしれない。先生の分厚い批評本を最初は嫌々読んでいたけれども途中から真面目に読んだ。「なるほど」と思う事が沢山あり、「ドストエフスキーは清水先生の批評を読むとより深く理解できる」という観念が私の中に形成された。清水先生は「打てば響く」感性の持ち主なのではないかとも思った。芸術家に必要な感性だ。ドストエフスキーにせよ、松原寛にせよ、池田大作にせよ、先生は心に響いた文学を素直に心に受け入れる事が出来る人であるなと、授業を受けたり、著作を読んだりして感じた。
 松原寛と私の名前は「寛」という字が被っている。名前が被っているのでどこか親近感みたいなものが湧いてくるのだが、松原寛の人生の苦労は結構自分に似ているなと思った。
 親と志が違うこと。やれば出来てしまうところ。それ故若い頃は虚栄の心に囚われていた事。懐疑心があったこと。
 「親と志が違う」のはもう現代においてどの家庭もそうかもしれない。志賀直哉みたいに父親の権力と戦って勝利して自分の人生を歩めた者、敗北して親のレールに沿わなければならなくなってしまった者、どちらもいるだろう。昨今アダルトチルドレン毒親などの言葉が出て来ているが、それは現代の子供達が「親からの精神的・経済的自立」を掲げて動き出している証拠であろう。松原寛はその走りだったと言えよう。
 「やれば出来てしまうところ」というのは、小学生時代必死に勉強して国語だけでも全国の小学生のうち13位に入った事がある私は何となくわかる。小学生時代必死に勉強して、女子なのにハゲるまで勉強し、ストレスにより高校生で精神的におかしくなるまで勉強に打ち込んだ私は、松原寛の負けず嫌い精神や周囲からの確立を目指して勉強に打ち込んだ気持ちが分かる。
 「それ故虚栄の心に囚われていた」ことは、中学までは勉強していたが高校でエネルギーが失われ、精神的におかしくなって暗記がいっさい出来なくなったり、理路整然と考えながら学ぶことが出来なくなったりして成績が下がったのだが、良い学校に入ったプライドだけで虚栄心により中身の伴わない優等生を演じざるを得なかった自分を思い出す。辛かった。
 懐疑心に関して。懐疑心だらけなので私は病に罹った訳だが、懐疑心のお陰で助かった事や大学の勉強に役に立った事が結構ある。懐疑心が無ければ研究は本当の意味で出来たとは言えないと個人的に思う。また他人に懐疑心を持って接する事も、本当の相手の人格を把握する為に役に立つと思う。松原寛が日藝を造り得たのも、懐疑心のお陰であろう。
 日藝ライブラリーの後半の清水先生の松原寛に関する文章は、哲学が主な内容であった。はっきり言う。私は哲学が何なのかわかっていない。ほぼ毎日死について考えていたり、自殺する人の心情について考えていたり、身近な人の死について考えているのに、「哲学」というものがイマイチよく分かっていない。
 私の友人の愛する人が亡くなった時、友人は哲学科に入り直したそうだ。死について、もしくは何らかの事象に関して「どうして?」や「何故?」を考える人は哲学をしている様なイメージがある。
 松原寛は哲学者としてもかなりの勉強、研鑽を積んで来た事が分かったので、「哲学とはなんぞや」と言う事を、改めて考え直してみたい。
 調べてみると、哲学とは『物事の「本質」を洞察する事、その問題を解き明かす為の「考え方」を見出す営み』と出て来た。
 生死についてだけでなく、様々な事を洞察する事全てが哲学だと言えよう。
 正直私は松原寛が論じているニーチェだとかカントだとかヘーゲルだとか全く分からない。もっと清水先生流に噛み砕いて語ってもらわねば全てを把握する事が出来ない。ドストエフスキーの原作を読んだら必ず清水先生の批評本を読むのも、自力では原作が本当に意味している事を理解したり、自分なりの批評が出来たりする能力が備わっていないと思っているからだ。
 正直松原寛の本の引用文も、清水先生の解説が無ければ意味がすんなり入ってこないという、恥ずかしいがどうしようもない事態が起こってしまう。難しい。
 ただ、志賀直哉を始めとする父親と息子の「男同士の親子は母娘並に壮絶な戦いが繰り広げられるのだな」と言う事がわかったし、思春期の性の目覚めが人間には重要な要素である事は良く分かった。松原寛だけでなく清水先生など、大失恋を超えて新たな自分を構築し、その経験を活かして研究のエネルギーの元にしたり、人生のスパイスとして楽しんだりして失恋自体を昇華させる人を何人か見た事がある。そんな事を経験した事の無い私は、「ただでさえメンタルが弱いのに失恋なんぞしたらどうなる事か」と思って安心している反面、「振られて人生のどん底にまで突き落とされるくらい家族以外で愛した人がいた」経験が羨ましいとも思う。その位大切に思える人に出会えないか少し希望を持っている。
 そして最後の『煩悶し求道する哲学者・松原寛』を読んで、哲学する事とは、日藝ライブラリーの1頁目に書いてある通り、『煩悶し、求道し、創造すること』に繋がってくるのではないかと最終的に思いついた。
 ピアノで言うと、楽譜を見てフレージングや音の高さ、音楽記号などから作曲者がどんな風に歌いたかったのか、あるいは何か情景を表現したかったのか、それともただパズルの様に音列を並べてみたのかを徹底的に読み取る為に悩み、様々な弾き方を試して足掻き、教師の解釈を考え反芻して音楽とは何かを求道している。そして最終的に、様々な事を自分で解釈し、他人からアドバイスなり自分には無い解釈をもらって自分で「こういう風に作曲者は考えていたのではないのか?!」という研究発表の場として、発表会や試演会、試験を受けるのではないか。様々な人の助言を、結局は自分自身の力に変えて外に出す、発表する、それが音楽実技=藝術である。
 松原寛は本を沢山読み、自分の信じる信念に従って生きて来た人であると思う。父がなんと言おうと、教師がなんと言おうと、自分で調べて散々悩んだ挙げ句出した結論と、持ち前の直感や感覚で人生を歩んで行ったまさに日藝人、藝術家として本来有るべき姿の見本的存在として私は畏敬の念を抱く。
 天才かつ努力家という完璧なスペックの持ち主であるのに、若いうちに挫折を味わっている事も好感を持てる。私の尊敬する人が「挫折していない人の人生はつまらない」と言っていたが、人生で何度か死に目に遭うほど挫折を経験している私としてはやはり同じく挫折している人の話す言葉は説得力が有ると思う。しかし挫折しようとも、折れずに立ち直ってまた己の信念に基づき力強い未来へ向かって行く松原を尊敬する。
 私はこの学年末課題は、てっきり林芙美子浮雲に関する何かを論述させられるのかと思い、課題が出された後即座に読み、準備万端であったのだが、意外な事に急に松原寛の事に関して論述しなければならないと知り、正直な所、焦った。授業で清水先生はありがたい松原寛のお話を、文芸批評論と文芸特殊研究でもお話ししてくださった。日藝に入学した者として、松原寛の存在と、松原寛を日大人として召還した山岡萬之助達の存在は知っておかねばならないだろう。1、2年生の時、どの先生からも聞いた事が無かった松原の存在を卒業する前に知る事が出来て良かった。日藝の成立ちすら知らない日藝生は沢山いると思うが、少しでも創始者の人物像、思想に触れる機会に清水先生の授業で出会えて良かったと思う。昔の日藝のイメージだと、「もしかしたら変わった人が造ったのかもしれない、オカマとか」と少し思いもしたが、そうでは無かった事に少し安堵した。藝術学部を造った人の元は哲学に繋がるのだと知り、
よく言われる哲学と藝術の共通点を垣間見たような気がした。
 しかし、松原寛と浮雲だったら浮雲の方について論述したかった気持ちもある。男女の痴情の縺れについて述べるのは何だか楽しそうであったからだ。敗戦した日本特有の男女の恋愛事情を知るのに、浮雲は生々しく理解する事が出来た。私の近しい人が「戦中戦後の日本の男は富岡みたいなのが結構いた」と言っていた。未だ避妊の文化があまり根付いていない日本人の、戦争の最中の性事情はきっととんでもなかったであろう。
 このように色々と浮雲についても考察したかったのだが、今回は「松原寛について述べよ」という事だったので、日藝ライブラリーに目を通し、自分なりに思った事を書いてみた。個人的には松原寛の男女関係を詳しく知りたいと思った。それに、音楽学科を造った人について、音楽学科の歴史について調べてみると面白いかもしれないとも感じた。機会があれば先生に聞くなどしてリサーチしてみたいと思う。