松原寛


「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想

松原寛

齋藤真由香

 「ふつうじゃない、が、ふつうです」。言わずとしれた我が校の掲げるキャッチフレーズであるが、私はこれが、どうにも胡散臭くて嫌いだ。笑いまじりにこのキャッチフレーズを嘯いて、世俗からはずれた自分、という自意識に酩酊する生徒を見ることがあったが、その都度ゾッとしたものである。日芸ってそういうところじゃないでしょう。と、一生徒でしかない私が声をあげることなど出来る筈もなく、そもそも私自身、何がどうしてこうだから、このキャッチフレーズはおかしいと、はっきり説明できなかった。それではどうしようもない。ただ何となく、だ。例えば凡庸であるのなら、そのことに煩悶するべきであるし、その逆に軒並みならぬ才に恵まれたのだとすれば、疎外感に苦しむべきではないのか。なんていう、私の「芸術に向き合う人間のありかた」のイメージと、どこにも懊悩や葛藤の滲まない「ふつうじゃない、が、ふつうです」は、相反したのである。そんな居心地の悪さに、松原寛という人物が、在学五年目となったいま、ぴしゃりと正解らしいものを浴びせかけてくれたのは、嬉しく驚きに満ちた偶然であった。
 “私は思う。苦悶の叫びこそ芸術ではないでしょうか。まことや如何にして生きんとするかという、苦悶の声を外にして、芸術は那辺にありませうか”。“芸術は真面目に生きんとする努力、深刻に生きんとする苦悶、其処にのみその本質がある。そのまことの姿がある。つまり吾々は死の洗礼を受けなければならぬ。常に炎のなかに燃えていなければならぬ。其処にのみ芸術が生れる。永劫苦悶の姿それが芸術の真面目であります”。松原寛著、『現代人の芸術』の一節だという。このひとが日芸の源流であることを、清水正先生が繰り返し論じていらっしゃったが、私は雷に打たれたような気持ちになったものだ。“煩悶せよ、求道せよ、創造せよ”。日本大学芸術学部に入学したあの春に、こう叱咤されたかったと、今更考える。松原寛という人物は、とても魅力的だ。神について考え尽くし、その尊さに膝をつき、しかし疑うこともやめず、苦悶し続けた彼の生き様は、私自身のものとは異なるが、しかしどうしてか身近に感じさせる魅力を持つ。その要因のひとつとして、彼が俗物としての自覚を備えていたことがあげられる。神を信仰しながら、どうしたってその信仰と相反するだろう、地の上についた功名心と華やかな権勢を諦められなかった強欲の、人間臭さ。“失望と厭世のどん底に陥るも、神により救われている自分が、名誉心によって満たされ、富も地位とも占め得たるとて、そこに真の満足があるのか”。こうして松原寛は懐疑に捕らわれたわけだが、私が何より胸をうたれた彼の言葉は、“私の言わんとする苦悩苦悶は外部からの圧迫や強制ではない。自我の探求、自己の凝視に依って、掘り当てた金塊である”というものだった。彼は己の思索を、何一つとして無駄にすることをよしとしなかった。苦しみから逃げることなく、それどころかそれに価値さえ見出して、芸術を生きたのである。こんなにも誠実な姿勢を目の当たりにして、このひとを好きにならないでいられるわけもなかった。「芸術に向きあう人間のありかた」の理想が、ここにあったのだ。中学に入る前から、「罪の意識」を抱えていたという松原寛であるが、私たちも、無意識下にこれを抱えているのではないだろうか。ひとはきっと、「罪の意識」を目の前に、目を逸らしたり、諦めたりしてしまう。だけど芸術を志すのなら、「救われたいと要求」しなければならないのだ。俗物となることに怖気づいてはいけない。「ふつうじゃない、が、ふつうです」が不満だった私は、己が何者か考えることを放棄し、安っぽいキャッチフレーズに安住することで、若い思惟を腐らすのが、怖かったのかもしれない。
 好意の土台が出来たうえで、私にとってのとどめとなったのは、『宗教の門』である。松原寛が、あらゆる自己否定によって、己を罰するような論説を繰り返すものであるが、そこには神という存在への深い愛情と、尊敬と、それに拠る戸惑いが浮かび、しかし悲しいことに、もたげる懐疑を鎮められず、諦められない希望も、透けて見える。これによって、私のなかの松原寛は、『身近なように感じられるし、好ましくは思うけれど、いまはもう過去のひと』で終わらなかった。ひとひとりの思想を超えた、しかし極めて単純な懊悩によって、松原寛という人物のバックボーンが、私自身に繋がったのだ。彼は間違いなく絶望しているが、そこから立ち上がることが出来ないほど脆弱でなく、また立ち直れてしまう強かさゆえに、苦しみながらも哲学をやめることが出来なかったのだろうかと思わされる、そういった魅力が、『宗教の門』には、満ちみちている。いくつか引用したい。“何のための祈りかと疑うのである。誰に向かっての祈りかと疑うのである。神の姿は次第に見えなくなった。神を見失っては一層不安である。それでも祈ろうとも勿論つとめた。神の姿を追おうともあせった。だがそれも徒労である。わが理知の眼は冷やかにこれを嘲り笑うのみである。こんな場合はしみじみと信仰に燃えていた昔が慕わしかった。なまじいに哲学を知ったことを恨めしくもなった”。「罪の意識」から逃れるための「外部からの」力を頼ろうとしたのに、彼は「自己の凝視に依って」、苦悶という「金塊」を掘り当ててしまった。そこに生まれる寂寥と不安が、彼にこれを書かせたのではないか。“かく救いは自分のみだと知った。だが余りにも弱い自分ではないか。どうしてかかる自分が頼まれよう。あんなに固い信仰は自分で壊してしまったではないか。あんなに頼んでいた神には自分から裏切ったではないか。かかる自分をどうして頼り得られようか。かくて何処に確信と自覚を得られうるか”。私たちが闘うのは、私たち自身なのだ。なによりも不安定で、なによりも存在を確認しがたく、しかしどうしたって一番傍にいる、自分自身。「裏切り」という言葉が使われているが、神を裏切った自分自身が、それまでの自分をも裏切ったということは、松原寛自身の乖離を意味する。己を形造ってきたものすべてを否定することで、究極の自己否定という「罰」を己に与えた松原寛は、救いから遠ざかるばかりのように見え、しかし反して、要求を強めているのである。“懐疑と不安より不信と煩悶に陥り、更に焦燥に迫られてきた。この激浪に翻弄されてきた私に残されたものは、ただ絶望と悲観あるのみである”。こう締めくくったとて、人生は続く。自罰的な思索のなかで生まれる苦悶の叫びを、松原寛は芸術と呼んだ。そして確実に、その先の救済を、諦めて居なかった。このことが、私にとって、あまりにも尊い
 松原寛の思考パターンというのがまた、面白い。清水正先生が自身の「あらゆる角度、速度、強度を駆使しての旋回批評」という思考パターンとの比較でもって、松原寛の思考パターンを、繰り返しを恐れないがために、神との別離を迎えたのではないか、また、彼の思索運動は決して定点的に固定したところに位置していない、ということを述べていたが、懐疑の到来による信仰の揺らぎから神を見捨てる直前までゆき、しかし見捨てることが出来ず、それでも彼のこころは、神への信仰を超えて不信と懐疑に向かっていたという事実の抱える皮肉が、これによって浮き彫りにされている。清水正先生は、松原寛の論の進めかたについても言及していらしたが、「対象とする相手の思想を簡潔に祖述し、それを最大限に肯定し、次に否定の刃を心臓部に突き刺し、致命傷を与えたうえで、今度はその治療行為に転じ、さらにどうしてこういった事態を招くことになったのかと自ら頭を抱えて煩悶し、さらなる永久的なものを求めて思索の砂漠を漂白することになる」というこの一種のパターンが、私には読み解くことが出来なかった。『若き哲人の苦悶』で書かれた自己内面に蓄積された苦悶や、『宗教の門』で書かれた自己否定の繰り返しから薄っすらそのようなものを感じ取ることは出来たが、『青年の哲学』に垣間見えるという欺瞞の自覚や、敬虔な信仰とは異質な、自分自身を英雄視する驕り高ぶりといった異なるイメージの介入によって、すっかり混乱してしまったためである。『松原寛が<現在>優位型の思索家である』という結論を導くことが出来るのは、清水正先生が松原寛の著作を一貫して読み続けたからだろうと、頭の下がる思いだ。
 “長崎県島原半島は、ゴルゴタの丘である”。松原寛の苦悶の生涯をあらわしたこの一文を反芻して、私がゴルゴタの丘を持たない事実を、情けなく思う。磔のイエスと、弾圧された信仰と、そのすべてを呑み込んだ、血と涙の地。彼の宿命が、終わらない思惟をもたらして、日芸にまで繋がったことを有難がるばかりの私にとって、江古田が戦場でないことも、また情けない。齢二十三にもなって、地に足がつかず、見る夢すら曖昧な自分が嫌になるが、まだ学生の身分であるうちに、日芸の源流を知ることが出来たのは、非常に喜ばしいことである。