「畑中純の世界」展を観て(連載30)

今年は宮沢賢治生誕百二十周年にあたる。今まで単行本に収録していない千五百枚強の賢治童話論
を刊行することにした。『清水正宮沢賢治論全集』第二巻として今年中に刊行する予定で準備に入った。現在、校正中。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

京都造形芸術大学マンガ学科特別講義(2012年6月24日公開)
ドラえもん」とつげ義春の「チーコ」を講義

https://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg

清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

ここをクリックしてください エデンの南 

畑中純の世界」展を見て
 松粼義邦



畑中純の世界」展をみて私は、平和について考えました。畑中純の描く「まんだら屋の良太」世界では、男も女も、子どもも大人も、堅気もヤクザも、さらに民族、思想、宗教までも大きく包容し存在し、その彼ら人間が産まれたままの姿で一緒にお湯に浸かっている。そこでは差別や争いはない。 共に同じ空間になんの違和感もなく存在をしているのである。世界中では今なお戦争が行われ、日本でも集団的自衛権強行採決によるデモ運動、価値観の違うもの同士の争いは留まる気配はない。平和とは一体なんなのか。集団的自衛権は国民の平和を守る法案だと安倍首相は言っているが、日本国民の大半はそれを理解する前に強行採決され、日本は明らかに平和とは程遠い方向に進んでいると思える。戦争は別々の国がまたは同じ国でも地域間による、互いが互いを侵略するために、相手を武力によって制圧しようとする。 それによって勝った国が得るものは一体なんなのだろうか。それは平和と呼べるのだろうか。私たちは常に周りの人間を意識してしまっている。人間に優劣をつけ、すぐに争いを持ちかける。互いを受け入れようとせずに、自分の考えを相手に押し付けることで、自分の存在を確立させ、相手を抑圧しようとする。安倍首相含め、私たちは日常生活の中で常にそういった行いをしてしまっている。仮にもし、集団的自衛権が廃案になった場合、日本国民の求めている平和とは憲法9条を守ってきた戦後70年の延長にあるのか。私はそれも疑問に思う。自衛権が廃案になっても、日常的な争いは続けられる。 互いを受け入れようとしない自分勝手な生活は続けられ、私たちは安倍首相と同じような存在であり続ける。 平和に答えはないが、私が今考える平和は、互いに受け入れながら共存し、均衡が保たれている状態を平和と呼ぶのだと思う。相手を受け入れるのは相当容易なことではない。 共存するには相手の良いところを認め、溶け合う必要がある。そしてその均衡を保つことは受け入れ共存することよりもさらに難しい。かの有名なガンジーは平和な世界を作るために非暴力非服従を唱え、争いが起き均衡が崩れると、自ら断食を行いまた均衡を取り保とうとした。取り戻した均衡もすぐに崩れまた争いは行われる。 ガンジーはその度に断食を行い、平和な国を目指したがその夢は叶うことなくこの世を去った。ガンジーにできなかったことを今の私たちにできるのだろうか。 ガンジーは一人しかいなかった。だから私たちはできるだけ多くの人間がガンジーにならなくてはいけない。断食をするのではない。自分なりに均衡を保とうとするべきなのだ。それは小さなところからでよい。自分の周りとの人間関係から少しずつ意識して均衡を保とうとするのだ。その数が増えればきっと日本は、ましてや世界が平和に近付くのではないだろうか。そうなっていく世界は遠い遠い未来かもしれないし、もしかしたら来ないのかもしれない。私たち一人一人が真の平和について考える日は来るのだろうか。
畑中純の描く湯の中は、平和、というのが実によく表されていると思う。様々な人種、価値観の持った人たちの産まれたままの姿には普通だったら誰しも抵抗のあることだと思う。しかし彼の描く世界では、それは簡単に受け入れられ、なんの恥ずかしみも感じられない。その均衡は崩されることなく、絵の中に閉じ込められている。絵の中で起きているその世界は、その世界外で起きている争いから完全に切り離されたように思える。絵の中にある平和の形、永遠にその均衡は守られたまま、現在も、そして未来も存在し続ける。彼らの逞しい姿にも、現代を生きる私たちとは少し違った世界であり、閉塞的な現代とは明らかに違った印象を受け取ることができる。あくまでこれはファンタジーの世界であり、現実ではなく、理想郷である。その理想郷は理想のままで訪れることはないのかもしれない。現代で実際に「まんだら屋の良太」の世界があったとすれば、受け入れることはかなり難しいかもしれないが、絵の中であれば、それは永遠に私たちの中の理想郷的な世界で存在し続けると私は思う。この日本が少しでも理想郷に近づけるように私たちは、受け入れ、共存し、均衡を保たねばならない。そう思います。