清水正の『浮雲』放浪記(連載197)

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新著紹介
小林秀雄の三角関係』2015年11月30日 Д文学研究会発行・私家版限定50部


清水正の『浮雲』放浪記(連載197)
平成A年9月12日
 読者はすでに屋久島でゆき子が一人、苦しみのあげくに息を引き取ったことを知っている。それだけに、ゆき子と富岡の二人にとって、鹿児島で若い比嘉医師と出会ったつかの間の時間だけが唯一の救いを感じさせる。比嘉医師はこの場面で単なる医者の役目を果たしているのではない。彼は富岡とゆき子二人の新生を祈念する司祭者として、ドヴォルザークの〈新世界〉を指揮する者として、桟橋から富岡に向けて〈緑色のテープ〉を投げている。比嘉医師と接して、富岡がドストエフスキーの『罪と罰』の一節を想起するのもとうぜんである。富岡がここで想起すべき最も相応しい『罪と罰』の場面は、エピローグでロジオン・ロマーノヴィチが復活の曙光に輝く場面であるが、それでは余りにも出来過ぎた、安易な象徴繋がりということになってしまう。ドストエフスキーはエピローグで、最後まで罪意識に襲われなかった殺人者を復活の曙光に輝かせたが、林芙美子は富岡兼吾と幸田ゆき子に〈復活〉〈新生〉を決して約束しなかった。『罪と罰』は作者の側から一方的にロジオン・ロマーノヴィチの復活を約束してしまったことで、少女マンガ以上のきれいごとで幕を下ろした。二人の女を殺して罪意識を感じない殺人者と、何人もの男を知っている淫売婦の二人が、今後どのような〈新生〉を生きるのか。ドストエフスキーは「愛によって二人は復活した」と書いた。そのことによって、逆に二人の〈新生〉の具体が見えにくくなってしまった。林芙美子はゆき子と富岡の前に、若い比嘉医師だけを登場させた。比嘉医師はゆき子の女心を甘くくすぐることはあっても、彼がイエス・キリストのような存在として受け止められることはなかった。富岡も比嘉医師の投げた〈緑色のテープ〉を受け止めることはできても、それはロジオン・ロマーノヴィチが〈神の風〉(ルーアッハ)に撃たれたこととはまったく意味が違う。林芙美子は「陽射しを受けた白い海上へ、富岡は、手に残っている緑のテープを風に散らした」と書いた。風に散らされた〈緑のテープ〉が〈陽射しを受けた白い海上〉と解け合う光景が鮮やかに見える。この光景をまごうことなき〈新生〉の場面と見るか、それとも単なる富岡の〈爽快な気持ち〉の反映と見るかである。後者に関して、もう一度引用しよう「足もとや肩にまつわりついていた、運命の鎖を、吹飛ばしてくれるような、爽快な気持ちだった」。富岡の海上での〈爽快な気持ち〉は、彼の全身を呪縛している〈運命の鎖〉を一時、吹き飛ばしてくれるような気分にさせてはくれたであろう。が、それは一過性の気分でしかないことを富岡はよく知っている。