清水正の『浮雲』放浪記(連載140)

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批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載140)
 平成◎年11月4日




 が、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』に至るまで「ひとりの人間が徐々に更新して行く物語」を書くことはできなかった。『罪と罰』のエピローグでのロジオンの復活は作者によって固定化されただけであって、その復活が永遠不動であるという保証はまったくない。ソーニャを一人の淫売婦に化身してペテルブルクに降臨したキリストと見れば、『罪と罰』はキリスト教的な大いなる象徴劇と言えよう。が、リアリズムを基調とした人間劇と見れば、スヴィドリガイロフの気まぐれな善行によって淫売稼業の泥沼から救い出されたソーニャにリアリティはない。ソーニャは余りにも肉の次元が欠落している。いつも神経質に手を揉みしだいている実存の痙攣状態を生きている(そのように描かれている)ソーニャに見合った淫売稼業の実態がまったく描かれていない。林芙美子がゆき子を原寸大の女として描いたような視点が、ソーニャを描くドストエフスキーにはない。ソーニャはひとりの女としての内心の声を作者によって完璧に封じられている。自己犠牲に徹した聖なる女(宗教奇人=ユロージヴァヤ)としてのみソーニャは照明が与えられている。この照明の与え方にわたしは作者の狭隘な残酷さを感じる。これはひとりソーニャに限ったことではない。ロジオンの犠牲になったアリョーナ婆さんにも言える。アリョーナに心暖まる照明はいっさい当てられることはない。アリョーナはロジオンの生理的嫌悪感にみちたまなざしを通して映し出されている。

 話を『浮雲』に戻そう。暴風雨の晩に、蝋燭の灯りで照らし出される富岡とゆき子の姿は物語の終幕にこそ相応しい光景である。もはや再三にわたって繰り返されてきたダラットでの思い出話など蛇足を越えた蛇足なのである。が、作者はここでも幕を下ろさない。富岡とゆき子は死の光景のうちにフェイドアウトされることを未だ許されてはいないのである。
 ラザロの復活の場面を聞いた直後、ロジオンはしばし深い沈黙の淵にたたずんでいる。が、『罪と罰』はソーニャの狭い菱形の部屋の、ちびた蝋燭の灯りが消えたと同時に幕を下ろしたわけではない。否、この場面は『罪と罰』の一つの大いなる山場であり、ロジオンのさらなる〈踏み越え〉(復活)へと発展して行く契機となる場面である。
 が、富岡とゆき子を覆い包む闇は、彼ら二人の新しい門出をなんら用意しない。殺人者ロジオンは娼婦ソーニャの〈信仰〉に賭ける気持ちを潜めているが、すでに十分〈もぬけのから〉になってしまっている富岡は、執拗に追いかけて来て、悦楽の過去を必死で現在に蘇らそうとするゆき子に心底嫌気を感じるだけでなんの期待も希望もない。

  富岡は、また同じことのむしかえしだと思いながらも、意固地に寝たままの姿でいた。ゆき子はせっかちに、何かを待ち望んで、マンリンの森の中の話を幾度もくり返している。思い出の中から、激しい接吻の味が、むっとゆき子の胸のなかにしびれて来た。だが、富岡は横になったままマンリンの思い出の景色なぞにはふみとどまってはいなかった。耳もとに、幾度も、ゆき子が、マンリン、マンリンとささやいてくれても、富岡は、自分の横に、大柄な躯を横たえていたおせいの思い出しか浮かばないのである。脚を自分の躯の上にどたりと乗っけて、鼻唄をうたっていたおせいの最後の顔が、ありありと眼底に浮んだ。(337〈四十四〉)

 恐るべき執拗な〈同じことのむしかえし〉である。作者が富岡とゆき子の腐れ縁を断ち切らない限り、この〈同じことのむしかえし〉が繰り返されることになる。ゆき子がダラットの思い出にしがみつく、そのしがみつき方はすでに常軌を逸している。発狂していないだけの狂気とさえ言っても過言ではない。富岡の耳元に「マンリン、マンリン」と囁く、その言葉は呪文のようにも聞こえる。すでに富岡の内ではおせいがゆき子に取って代わっている。が、わたしはこの場面を素直に読み進むことはできない。なにしろわたしは向井に殺されたおせいという設定を納得していない。従ってわたしは、殺されてしまったおせいを富岡が思い出しているということ自体が滑稽に思える。執拗に富岡を追いかけてくるゆき子にもリアリティを感じないが、それ以上に殺されてしまったおせいにリアリティを感じない。作者は自分が書いている作品に関して〈絶対性〉を不断に確保しているわけではない。作者といえども相対化されるのである。
 わたしは何度でも同じことを多少言い方を変えて指摘しているが、この滑稽は作者の滑稽を決して越えてはいない。作者は描法上の滑稽を十分に自覚しながら〈同じことのむしかえし〉を繰り返している。作者は明らかに確信犯である。〈同じことのくりかえし〉を繰り返さなければ目指す頂に到達できないことを作者は知っている。だからこその執拗な繰り返しなのである。
 富岡が求めているのは生きたおせいではない。執拗に追いかけてくるゆき子ではない。強いて言えば富岡はすでに死んでしまったおせいを求めている。その意味では、富岡もまた、ゆき子と同じ悦楽の〈過去〉に呪縛されている。言い方を変えよう。富岡には帰るべき故郷がない。彼の実存を癒す場所がこの世界の内のどこにもない。このことはゆき子にも同じことが言える。設定上、ゆき子は静岡に実家がある。しかし再三指摘しているように、ゆき子の〈家族〉の実態は白日のもとに晒されてはいない。読者は父親の名前も母親の名前すらも報告されていない。最後の方で、母親が継母であることは記されているが、ゆき子の家族の実態を照らし出す照明が当てられたことはない。
 ゆき子は作者林芙美子を色濃く反映された宿命的な〈放浪者〉と言っていい。富岡はゆき子にとって仮構の港ではあっても、本物の港とはなり得ない。ゆき子はそれを充分に知っていて、つかの間の碇泊を試みる。この試みは演技ではない。しかしそれはゆき子の自意識が演技を演技として認識していないだけのことで、それは演ずることが生きることになってしまったことを意味する。富岡の耳元に「マンリン、マンリン」と囁く女魔術師ゆき子は、その魔術の効果を信じていたわけではない。魔術も呪文も、行き場所を失ったゆき子にはごく自然な言葉の発露でしかない。富岡がゆき子の呪文に戦慄しないのは、それ以前におせいの実体感にとらわれているからである。ゆき子が富岡の〈幻影おせい〉を殺せなければ、富岡の心はゆき子の方へと向くことはない。が、富岡が求めているのはおせいの若い肉体でしかないから、すでに齢を重ねたゆき子は、もうそれだけで〈幻影おせい〉にすら勝つことはできない。女の魅力をその躯にしか求めない富岡の心は冷酷である。が、それは富岡が虚飾のない男そのものを生きている証でもある。富岡は自分の心に忠実なだけとも言えようか。