宮野江里加「教育者としての熊谷元一」

教育者としての熊谷元一
宮野江里加

「ピカピカの一年生」、熊谷元一の写真集展を見てふと思い浮かんだ言葉である。
毎年、春が近づくと聞こえてくるフレーズだが、此れと言って意識する人は少ないのではないだろうか。私はというと、五歳のときに来年は自分の番だと憧れを抱き、その時が来たときにはとても誇らしげに思った記憶があるが、それ以降は自分には関係ないように感じている。なぜだろう?中学・高校一年生だって立派な一年生だし、社会人一年生という言葉もある。しかし一般的にイメージされるのは、小学校一年生であろう。思うにそれは、誰もが強く印象づけられる体験だからではないだろうか?
 このことは、いつの時代も同じことだと思う。卒園式の別れの悲しみは一日で吹っ飛び、おじいちゃんおばあちゃんに買って貰った大きなランドセルを手に、私はこれから過ごしていく新しい世界への希望に胸を弾ませていた。小学校ってどんなところだろう?お友達はできるだろうか?担任の先生はどんな人だろうか?誰しもが経験するであろう期待と不安が入り混じった不思議な感覚がそこにはある。
 今年、小学一年生になった子供たちを何人か知っているが、私は、他の学年とは違う特別な想いを持っている。まだ6月、入学以前のあどけなさは残っているし、友達とのふざけ方も変わらない。しかし、何かが違うのである。ハッキリとした理由はないが、入学する前の彼らを知っている私から言わせたら、その子たちはまさに輝いているのである。それと同じ輝きが、彼の写真からも鮮明に伝わってきた。
 また、小学校に上がりたてのときは何もかもが新鮮で、何がして良いことなのが、悪いことなのかよく分からない。本当に未知の世界なのである。そして、黒板というものはまさに、その象徴でもあるだろう。「教師の聖域」と言われてみればその通りである。黒板に落書きをすることはきっと悪いことだと、言われなくとも誰しもなんとなく持っている感覚である。それを開放し、児童たちにのびのび、自由に書かせた教師、熊谷元一のやったことは明らかに常軌を逸している。だが、時代は違えども学習指導要領の総則で謳われている「個性を生かす教育」 を十分に果たしていると感じた。日本の民主主義教育は、子供の個性を尊重していないと常日頃から思っているため、彼のような教育方法には感銘を受けた。
教職という職業は、教室という閉ざされた空間の中ではある種、法律であり神である。先生が良いと言えばよく、ダメと言えばダメ。であるからに、教師は児童にとって大きな影響を及ぼすのである。
しかし、熊谷の場合はそうではないように感じる。写真の子供たちはカメラを全く意識せず、彼は自然のまなざしで子供たちを見ていたと表現されていた。そのことから、彼の教育方法は何か影響を与えようとするのではなく、児童たちの姿をそのまま受け入れるものだったのだと感じた。それは、親にも言えることで、子供の好きにさせようと思っていても、自分の子となると実際には上手くいかない。どんなに出来の悪い子供でも、ありのままに認めてくれる親が欲しいものだ。
 この黒板絵を見てみると、一年生のころは、自分の身近なものや、夢といったものが描かれている。それはまるで絵日記の絵のようである。そして二年、三年生に上がると、徐々に黒板絵は迫力を増していき、授業で習ったことや、そのイメージを絵にしているように思う。だが、順序通りに見ていくと一年生のほうが個性的で魅力があるように感じた。つまりは、一年生の頃は、自分の好きなように思ったことを描いていたが、学年が上がるにつれて自分の内側ではなく外側からの刺激に対し、ただ反応しているといった感じであまり面白くないのである。そしてこのことは、写真展で貰った新聞の一節を読むと合点がいくのである。
「構想は描く先から生まれていきました。つまり無心、無意識の世界です。(省略)やがて人に見せる意識が生まれ、上手下手の別もはっきりして、無心は無心でなくなり、黒板絵は終わりに近づいていった。」
要するに、子供たちの絵は自然に生み出されるものから、アートという人工的なものへと変化していったのだ。
 それにしても、なぜ彼は三足のわらじを履いた人生を送ったのだろうか。資料では写真家、童画家として著名であるが、教育者としての顔はあまり知られていなかったと書かれている。けれども、こうして日の目を見るようになったのは、彼が継続して写真を撮り続けたからだろう。その上、写真をただ撮るだけではなく名前と日付を書いて記録したのだから、ここに彼の児童に対する深い愛情を感じ取ることができる。きっと彼は子供が好きだったのであろう。そして、けんかをしている写真から分かるように、愛を持って時に厳しく子供たちを見ていたのである。熊谷の写真からは、教師としてのまなざしではなく、父親のような愛に溢れたまなざしを感じとることができる。子供の無邪気さが至極表れているのはそのせいなのだろう。

日芸図書館企画の展示「写真家 熊谷元一」は六月二日より十六日まで日芸アートギャラリーで開催されています。詳しくは日芸図書館(℡03-5995-8306)にお問い合わせください。


熊谷元一写真集『黒板絵は残った』(D文学研究会発行・星雲社発売)は五月三十日に刊行されました。

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四月三十日の読売新聞夕刊15面に芥川喜好氏の「時の余白」で紹介、また五月二十一日に長野朝日放送で十分ほど特集番組として放映されました。