うちには魔女がいる(連載24)


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矢代羽衣子さんの『うちには魔女がいる』は平成二十六年度日本大学芸術学部奨励賞を受賞した文芸学科の卒業制作作品です。多くの方々に読んでいただきたいと思います。



矢代羽衣子

うちには魔女がいる(連載24) 

 夜なべの筑前
  
    

昔から私は聞き分けの良い子どもだったが、唯一、祖母にだけは生意気な態度をとっていつも叱られていた。
怒ると低く冷たい声で理詰めしていくタイプの魔女とは違い、祖母は随分とヒステリックで感情的なタチだった。甲高い声でキャンキャンと吠えられると、普段は素直で穏やかで、大人たちに口ごたえなんてしたことのない私も、気がつくとつい負けじとキャンキャンと子犬のように吠え返してしまうのだ。
泣きながら大喧嘩して居間を飛び出し、暗い階段でひとりぐずぐずと鼻を啜っていると、決まって祖母は不機嫌そうに部屋から顔を覗かせた。わざと怖い声で「オバケが出るぞ〜暗い廊下はオバケが出るぞ、連れてかれちゃうぞ〜」と大人気なく脅かし、それにより一層大泣きした私が涙声の罵詈雑言を吐きながら居間に走り戻る、というのが二人の喧嘩のお決まりのパターンだった。

きっと、誰よりも甘えていたのだと思う。
魔女が出掛けていない夜に祖母の部屋にいくと、なにも言わずに布団を持ち上げ、体をずらしてスペースを作ってくれた。
トイレの扉の前で間一髪間に合わなくて、汚れた下着と廊下を一緒に掃除して、魔女には内緒にしておいてくれると約束してくれた。
家の階段で一緒にグリコをしてくれたのも、夜の布団の中で古いわらべ歌を教えてくれたのも、酷い点数を取った社会のテスト用紙を指さして笑い、けれどもそのあと勉強に付き合ってくれたのも。全部祖母だったのに。

祖母は車椅子に乗っていた。赤と黒のチェックのクッションが敷いてある、大きくてタイヤのついた彼女の相棒。私は今でも、あの冷たい鉄の感覚と、タイヤがフローリングで高く鳴く音を時々思い出す。
彼女は私が一歳のときに脳溢血で倒れ、一命は取り留めたものの、家に帰ってきた祖母の左半身は思うように動けなくなっていたそうだ。魔女は当時、まだ高校三年生だった。
古い家族の写真の中では、若い祖母が何の支えもなくしゃんと背筋を伸ばして立っていて、その姿を見る度に何だか不思議な気分になった。私は車椅子に乗っている祖母しか知らない。けれども写真の中の笑顔は、私がよく知る少しシニカルな、いたずらっ子みたいな溌剌としたものだった。



祖母が死んだ。
十一月の寒い夜だった。私は中学二年生で、今度はひとりで祖母の病院に泊まりに行こうか、なんて話をしていた矢先の事だ。
祖母はもう随分と長いこと腎臓を患っていた。最後の方は意識もだんだんと濁り、私の知っている、わざと小憎らしい顔で笑う祖母とはあまり会えなかったような気がする。
病院から容体が急変したという電話が来た時、とうとうか、とも思ったし、嘘だ、とも思った。きっとこれから、何度も経験する傷みだ。私の好きな人たちは、みんな私を置いていってしまう。

そこからはあっという間だった。
葬儀のためにしなければいけないことはたくさんあって、遺族にはゆっくりと悲しむための時間はそう与えられない。祖父も魔女も憔悴しきっていて、私は何ひとつ直視できずに、ずっと曖昧に笑っていた。空気に一枚薄い膜が張ったみたいな、透明であたたかいぼんやりとした悲しさが、肌に張り付いては少しだけ呼吸を苦しくさせた。

祖母が亡くなってから葬儀までの約一週間、食事はすべて出来合いやお弁当ばかりだった。ウチのごはんは全て魔女が担っているといっても過言ではないし、彼女は家族のなかでも相当参っていたので、無理もない。誰が一番つらいとか、そういう話ではないのだ。ただただ、祖母がどれだけ探したってもうどこにもいないという事実が、ずうっと後ろを付いてきて離れてくれない。
しかし、やらなければいけないことは次から次へとやってくる。仕事に追われて案外日常を慌ただしく過ごしていた中、お通夜が終わった夜に、魔女がぽつりと呟いた。
筑前煮、食べたいね」

夜の冷えたキッチンに、魔女と二人で立って、包丁を握った。
手間のかかる料理だ。何より下準備に時間がかかるし、そこがミソといってもいいだろう。野菜を切って面取りをして、味が染み込みやすいように切り込みを入れて、蒟蒻や八つ頭を下湯でして。
ひとつひとつの工程を丁寧になぞっていく作業は楽しかった。ちょうどいい具合に頭と心を空っぽにして、飽和したかなしみでぶよぶよに溶けていた思考を、少しだけまともに戻してくれた。
「ママがね、意識があるときに最後に食べたの、私が作った筑前煮だったのよねぇ」
魔女は祖母のことをママと呼んだ。私も魔女も、とうとう二人揃って母親を亡くしてしまった。
「あんたの作ったものが一番美味しい、って言っててねぇ」
ママの筑前煮、食べたいねぇ。何でもないことのように言った魔女の声が、一番心に突き刺さった。
祖母は料理上手だった。その味は、確実に魔女に受け継がれている。魔女や母や祖父の血や肉をつくり、めぐりめぐって私の身体に回ってきた、やさしいごはん。
ああ、私たちは、あの人の作ったものを、もう二度とは食べられないのだ。



出来上がった大量の筑前煮はあたたかくてやさしい味がして、お弁当続きの身体にじんわりと染み渡ったが、魔女としてはいまいちの出来だったらしい。何度も首を傾げていた。
真夜中のキッチンでふたり、他愛もない話をして、食べて笑って、時々泣いた。
いまでも日常のふとした瞬間、流れていく時間のなかで思い出す。
タイヤのゴムが高く鳴く音、車椅子の鉄の匂い、歯に衣着せぬ物言い、大きな真珠のイヤリング、シニカルな笑顔、赤縁のメガネ。真夜中の筑前煮。あの人の作る、やさしい料理。
思えば祖母は、あの魔女の料理の師匠なのだ。そうなると、彼女は大魔女といったところか。

私もいつか、あんなに美味しくてやさしい料理が作れるようになる日が来るのだろうか。
大魔女と魔女のごはんで出来た身体で、今日もわたしは明日へ歩く。

  


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