「ドストエフスキー曼陀羅」五号刊行

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


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清水正・編著「ドストエフスキー曼陀羅」五号(2015年2月10日 日芸文芸学科「雑誌研究」編集室)が刊行されました。A五判並製221頁・非売品。講読希望者はD文学研究会メールqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛てにお申し込みください。

ドストエフスキー曼陀羅 5号 目次

ドストエフスキー放浪記ーー意識空間内分裂者の独白ーー/清水正……6

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美……47
色彩からみる『白痴』ー『白痴』に於ける〈緑〉ー/入倉直幹……50
ムイシュキン、あるいは聖なる〈物語〉/山下洪文……64
『白痴』マリイについて/小山雄也……72

一枚絵の可能性〜三年間の歩み〜/牛田あや美……76


「解釈からのインスピレーション」を一枚絵で表現する授業が「表現技法Ⅰ」である。京都造形芸術大学マンガ学科設立当初、学生の解釈がどのように作品へと反映したか、学生自身が一枚の絵を見てわかる授業をと考えた科目である。
一回生の授業で検討したが、高校を卒業したばかりの学生には難しいのではと、二回生前期の必修授業として設定した。学生が講義を受け、そこからのインスピレーションを一枚絵、あるいは講義を下敷きとし、使用されたテキストから場面の挿絵を描くことになった。
そこで「表現技法Ⅰ」を日本大学芸術学部文芸学科の教授清水正先生にお願いした。清水先生は予備校が行っているベストプロフェッサーにも選ばれており、学科長の志賀公江先生もぜひにとリクエストした。恩師である清水先生の講義を学生に受けてもらいたいという私の熱望も大きかった。
清水先生の講義の前に学生がどれほど小説を解釈し自己作品へ反映するかを試みた。テキストはどれを選ぶべきか。学生に読みやすく、古典ではないテキストを使用したいと考えた。そのとき、ふいに大学の先輩であり、日本大学芸術学部文芸学科の山下聖美先生に紹介していただいた大先輩、群よう子さんを思い出した。私は中学生のときから群さんの作品を愛読していたことから、若い学生に面白く読みやすいと考えた。
マンガ学科にいるのだから、学生は本を読んでいると考えるかもしれない。読書の好きな学生はいるが、多くない。マンガしか読んでいないのではと思う人がいるかもしれないが、マンガもほとんど読まないという学生もいる。
学生は自分のマンガを描きたいという実技派が多い。
一度授業で、学生の生まれる以前のマンガタイトルをあげさせたことがある。すべてアニメ化されたマンガ作品を取り上げていた。アニメ化されていないマンガ作品に関してはほぼ知らないというのが現状である。そのため読書習慣のない学生に対し、あまりストレスなく読めると思い『かもめ食堂』を取り上げた。それでも厳しい学生もいるだろうと映画化された作品でもいいという条件をつけた。小説・映画からのインスピレーションで、八〇分二コマの授業を三週に渡り、学生は描いていった。
映画は小説より具体性が強いため、インスピレーションを出すのが難しいのではと懸念したが、映画から描いた作品でも画面の構図にひかれることがなく、自由な解釈で絵を描いていた。
ただ一つ、共通する点があった。絵の中に「かもめ」が必ずいた。まるで題名の「かもめ」は描くべきものだとすり込まれているようであった。
かもめ食堂』は、「かもめ」という鳥自体をテーマに取り上げてはいない。登場人物の視覚からの風景、彼らの暗喩になっていると気づくのでは、と期待していた。しかし、私が甘かった。少しでも学生に解読を提示すべきであった。そんな反省をしていたときに、清水先生におこしいただいた。
二〇一二年五月二六日、この日から京都造形芸術大学マンガ学科と日本大学芸術学部文芸学科の清水正先生との関係が始まった。私は『かもめ食堂』の反省があったことから、お迎えに京都駅で先生の姿を見かけたとき、救世主が現れたのではと錯覚したほどだ。
同じテキストを長年解読し続け、それを授業でおもしろく語る。その作品を読んだことがなくとも、読んだかのように「観客」を暗示にかけていく。さらに解読を次々と書籍にしていく人物を清水正先生以外は知らない。
清水先生の講義から学生はどんなインスピレーションを得て、自己の作品へと反映していくのか。楽しみであった。
藤子・F・不二雄ドラえもん一巻』の冒頭、つげ義春『チーコ』をテキストとして学生にお話をしていただいた。学生はまず『ドラえもん』の最初の一コマから読み取れるのび太という登場人物に圧倒された。清水先生は、一コマのみで読み取れる構図をのび太のいる位置から、置かれている物体の距離、その物体の意味などを丁寧に説明した。また『チーコ』では学生に登場人物を演じさせ、そのせりふを発したときの気持ちを彼らに考えさせた。そこには読者としてとどまっていただけではわからない要因を学生に気づかせた。架空の登場人物も生きている人間と同様に「心」を持っている。学生はマンガ作品の奥深さに感心しきりであった。その模様は京都造形芸術大学アーカイブとして撮影されており、ネットにあげられている。
その後、学生は清水先生の講義からインスピレーションを得た作品を描くこととなった。学生は素直に講義を受け取ったようで、学生のインスピレーションというより清水先生のインスピレーションを描いている作品が多かった。学生は講義の内容を明確に受け取っていたが、その先に見える「一枚絵」を描くにはまだ遠かった。
同時にマンガという具体的なキャラクターが存在するものを描く難しさを痛感した。藤子・F・不二雄つげ義春のマンガキャラクターが全面に出てしまう。つまり二次作品のようになってしまい、せっかくの作品が正式なかたちで発表できなかった。そのため「人にみてもらう」という作品展示にまでもっていけなかったことが悔やまれた。
そのリベンジというわけではなかったが、二〇一三年は、マンガでなく小説の講義をお願いした。ドストエフスキー罪と罰』冒頭、宮沢賢治『どんぐりと山猫』『まなづるとダアリヤ』をテキストとし講義をしていただいた。今回も学生はテキストに登場する人物を演じたことがよほど強烈であったのだろう。その後に描かれた学生の作品は、清水先生が「演出」した部分を、再度テキストに描かれた場面に移し替えていた。同じ場面を描いていた作品が多かったが、登場人物の意匠が学生により異なっており、面白い作品として仕上がった。
学生は三作品のうち一作品を選び描いた。宮沢賢治作品が圧倒的に多かった。このことから学生には『罪と罰』は読まなかった、またはテキスト量に圧倒され読めなかったことが原因だろうと考えていた。のちに半分くらいの学生は読もうとチャレンジしたが挫折し、読破した学生もいたことがわかった。
読破した学生になぜ宮沢賢治の作品を描いたのか尋ねると、幼い頃に読んでいて親しみがあったからと答えていた。ドストエフスキーは初めて読み、最後まで読んだがよくわからなかった。講義で聞いたラスコーリニコフが老婆を殺そうと思案し歩き回る場面は、印象に残っていたが、何を表していたか考えすらしなかった。そこで先生の解読でびっくりし、自分の解釈があまりに浅はかではなかったかと、描くことに気おくれしてしまったと答えてくれた。
学生の描いた作品は宮沢賢治の小説が多かったが、感想文には『罪と罰』の講義のことが多く書かれていた。言葉で書けても、一枚絵で表すことが難しかったのだろう。言葉から絵へと視覚的なかたちへと持っていくことが当初の授業設定であったことから、学生の言葉や感想文は授業計画をする上での勉強となった。
私が清水先生の『罪と罰』の講義を聞いたのは、読んでから十年以上も経てからである。すぐに清水先生の講義を聞いていたのなら、答えてくれた学生と同じ反応をしたに違いない。これこそ学生に経験してもらいたかったのだと、今さらながら気が付いた。やはり清水先生といえば『罪と罰』である。
二〇一五年は満を期し『罪と罰』の講義をお願いした。同時に、学生が『罪と罰』を読むだろうかと不安があった。清水先生からは簡単なあらすじを読むよう指導してほしいと指示があった。そこであらすじを事前の授業で学生と読み合わせをした。また『罪と罰』を日本の幕末に移し芝居にした野田秀樹の『贋作・罪と罰』、現代のフィンランドに舞台を移し映画にしたアキ・カウルスマキの『罪と罰−白夜のラスコーリニコフ』、日本の学園マンガを背景とした落合尚之の『罪と罰』、それをテレビでドラマ化した映像などを学生と確認していった。
罪と罰』は学生にとり「古典」という、遠い時代のお話である。そのため「古典」というだけで拒否反応をする学生もいる。「古典」に触れることの少ない学生にとって、時代を経ても再読され続ける作品の奥に秘められた「何か」に気づくことで、自己の作品に反映できる可能性を知ってもらいたかった。
三回目の清水先生の講義は二〇一五年五月二六日。一回目、二回目とは比べものにならないほど私は緊張していた。長編の『罪と罰』を学生は読んできたのだろうか。昨年のように宮沢賢治の短編には逃げられない。テキスト量だけでのことであったが、読書習慣のない学生にはドストエフスキーの短編でさえも難しい。
心配をよそに想像以上の作品ができあがった。講義はラスコーリニコフが老婆を殺すまでであった。それゆえその場面を描く学生が多いと思っていたが違っていた。『罪と罰』を読まずして、その解釈にはたどり着けない作品もあった。また清水先生の本を読まなければ表現できない作品を描いた学生もいた。
教会の中で助けを求めにきたラスコーリニコフを抱きしめるソーニャ、彼らの後ろには祭壇のマリア像が二人を包み込む作品。手錠につながれたラスコーリニコフ、彼の顔は「血」に覆われ、顔が判別できない作品。自分の手を噛み切るラスコーリニコフの姿は、まるで吸血鬼を想起させ、首には逆さ十字架がかけられ、キリスト教への背徳を表している作品。ソーニャとラスコーリニコフを対比させた作品。まさに老婆を殺す瞬間のラスコーリニコフの葛藤を描いた作品などどれも個性的な作品に仕上がっていた。
一枚絵は、物語を凝縮し描かねばならない。物語の解釈、それを絵にする発想力なくして一枚絵は描けない。画力こそ重要だと考える学生も多い。しかし、ストーリーマンガは、物語を読者に伝えることが使命である。必ずしも人気マンガ家の絵がうまいわけではない。解釈する力、それを絵にする発想力の重要性を少しでも実感して欲しいと始めた授業であった。まだまだ模索中ではあるが、学生には難易度が高いことを無理して行ってみる大切さをこの三年間で実感した。

清水正先生には三年にわたり「表現技法Ⅰ」の講義において学生にインスピレーションを与え、また御著書に学生の作品を掲載していただき誠にありがとうございました。




小林秀雄に於けるジッドとドストエフスキー/此経啓助……85
『白痴』論ー文学の表層と深層ー/上田薫……91
清水正氏の「『悪霊』の世界」について/福井勝也……100
にがり顔のクリス丈Ⅱ(ヴァリエーションno.)/中村文昭……106
 ーー        

 「D文学研究会主催・第1回清水正講演会
「『ドラえもん』から『オイディプス王』へーードストエフスキー文学と関連付けてーー」を聴いて

D文学研究会再活動を祝う/下原敏彦……134
D文学研究会第一回講演に参加して/小山雄也……137
清水ドストエフスキーの「クリテイカル・ポイント」/福井勝也……139
  ー『世界文学の中のドラえもん』についてー
清水正教授の実存、常識、公正、重層。/尾崎克之……145
緊張の瞬間/伊藤景……147
  ーーD文学研究会主催の第一回講演会においてーー
批評の残酷性と真実性と無力性/山下洪文……150
 ーー清水正の新著『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んでーー
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んで/伊藤景……154



 「文芸入門講座」(平成26年度)課題
清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を読んで、手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』について思うところを記しなさい。

 
 川田修平……罪と罰、天才と凡人、愛と死、神と悪魔/160
 黒澤安以里……ドストエフスキーの原作と手塚治虫の漫画版『罪と罰』について/163
 前田悠子……手塚治虫地版『罪と罰』になかったもの/166
 飯塚舞子……原作地手塚治虫版における『罪と罰』/169
 渡辺友香……手塚治虫と『罪と罰』/172
 山田優衣……『罪と罰』原作と手塚版を読んで/175
 城前佑樹……わたしたちは越境して、もう一度、戻ってこなければならない。/179


『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜/下原敏彦……194
  ーーロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作ーー 

表紙絵/赤池麗    裏表紙絵/大森美波    扉絵/金正鉉
カット/聖京子
本文絵/杉山元一 佐々木草弥 此平聖菜 金正鉉 大森美波 梶本佳雪 赤池