どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載53)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。




人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。





ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp


清水正へのレポート提出は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお送りください。





人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。


どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載53)


清水正


統括する意識と演技者ピエロ


 『分身』のゴリャートキンに至っては、当初から狂気の壷へと陥った存在であった。彼は小説の幕開けからすでに被害妄想者として登場し、自らの醜悪な分身と出会い(自己像幻視)、結局は自己破綻へと突進してしまう。
談志は自らのピエロ性を十分に自覚している。決して彼はゴリャートキンのように狂気に陥った存在ではない。談志は自らの〈狂気〉を不断に意識し、統括する〈意識〉を保持している。その意味で彼は、自らのピエロ(道化人形)を巧みに操作する操り人形師とも言える。
 もし、このピエロが糸を操る人形師の手を振りきって一本立ちしようとすれば、たちまちその生命力を失うことになる。人形師の巧みな操作なくしてピエロは一時も〈生きる〉ことができない。比喩を変えれば、人形師(統括する意識)から解放されたピエロは狂気の領域へと突進することになる。談志はその誘惑にかられはしたろうが、ついに統括する意識の呪縛から解放されることはなかった。
 談志は〈統括する意識=演出・構成家〉を観客から隠して、〈ピエロ〉(落語家=演技者)に徹することができなかった。むしろ前者と後者のちぐはぐな会話をそのまま観客に晒してしまう。そういった本来、楽屋裏でしか許されないようなことを、高座でやってしまう。これは〈芸〉と言うよりは、一種の〈やけっぱち〉と言ったほうがいい。傲慢と甘えをミックスした〈やけっぱち〉で、それを受け入れる観客も同質の〈やけっぱち〉を抱え込んでいるのだろう。極端な言い方をすれば、演じ手と観客が同胞意識を持って一つの場に集まって〈やけっぱち〉を楽しんでいるということだ。
 
 



人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。