どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載49)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載49)


清水正


愛好家と批評家


 柳澤睦郎は「好生聞こう会」まで作って好生を応援したが、結果として好生は落語家を全うすることはできなかった。柳澤睦郎はわたしが日芸文芸学科主任であったときに、専門科目「風俗論」担当の講師として招いた関係で親しくおつきあいさせていただいた。彼は温厚な人柄でつねに笑みをたやすことがなかった。屈託のない明るい笑いをする方で、会うと心和むひとであった。彼は本当に落語が好きで好きでしようがないといったひとで、こういうひとを文字通り落語ファン、落語愛好家と言うのであろう。
 わたしは文芸作品でも絵画でも映画でもマンガでも落語でも、読んだり見たりするものに関してはいつも批評が頭から離れない。わたしは十七歳の時からずっとドストエフスキーを読み続けているが、ドストエフスキーの作品をただ読んで楽しむことができない。敢えて言えば、読むことは批評することであり、批評することが作品を楽しむことなのである。志ん生落語を聞き続けて不眠症を克服したときでさえ、志ん生落語を批評の対象として考えていた。現に、志ん生の『お直し』と『罪と罰』のマルメラードフの告白についてかなり詳細に批評した。
 落語を聞いて笑うと言っても、わたしは柳澤陸郎のように腹を抱えて笑うような笑いかたはできない。ましてや明るく声を出して笑うことができない。笑ったにしても、その笑いを不断に自意識のフィルターにかけている。七面倒な聴き方で、落語愛好家から言わせればずいぶんとへそまがりにみえるかもしれない。が、こういった接し方になれているので、本人は何の抵抗もない。
映画は見終わった時に批評は完結している。視覚で見れるものは絵画であれ彫刻であれ、一瞬にして批評は完結している。批評を書き上げるための時間を必要とするだけのことである。
 尤も、批評は発掘作業に似ているところがあり、発掘の作業中に新たな発見があり、これがまた批評の面白さということになる。いずれにしても、最初に批評衝動を促すものが作品になければどうしようもない。


 



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