どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載37)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載37)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


落語家から逸脱した落語家


高座で、なぜ敢えて落語論や、長すぎるまくらを話したりするのか。まくらは落語の導入部にあたり、これが長すぎれば本末転倒ということになる。談志は笑点の初代司会者(正確には円楽)としてテレビでも顔と名前を売ったし、政界にも打って出た。寄席芸人の枠に収まりきらないキャラで、各界の著名人とも交流があった。
 紀伊國屋書店社長の田辺茂一を人生の師と仰ぎ、彼にはずいぶんと可愛がられた。談志は生意気で好き勝手なことを言ったりやったりしている印象が強いが、大物の懐にはすっと入る能力に長けていた。
 談志の生意気に真っ向から張り合ってしまえば、こんな癪にさわる男はなかろうが、それを受け入れる度量があれば、生意気は愛嬌となる。もともと生意気は、焦燥であり反逆であり甘えの反映である。自分を的確に理解してくれることを心底願っているのに、それが叶わないときに表に出る態度の一つが生意気である。この談志の気持ちを理解し、励ます側に位置すれば、生意気の発揮しようがない。
 談志は既成の落語に揺さぶりをかけ、現代に蘇らせようと必死になって創意工夫を重ねる。とうぜん、寄席でもそれを実験的に披露したくなる。談志に落語の解体と再構築を求める熱烈なファンはそれを喜んで受け入れる。が、おそらくそういった観客は少数派で、大半は既成の落語に充足して、敢えてそれ以上のものを求めたりはしない。
 寄席の観客は落語に政治批評や芸能批評を求めてはいない。それらの本格的な批評を求める者たちは、それに関する専門書を読んだほうがいいと思うだろう。尤も、談志ファンの中には落語より、彼の言いたい放題の毒舌に惹かれる者もある。
 落語をやらずに辛辣な批評的言辞をまき散らす。これは談志が落語の革新を不断に探求し続けていたことの一つの証であり、同時に飽きの結果とも言える。一つのことをやり続けている者には必ず、この〈飽き〉が襲ってくる。突然、大地震が起きて、続いて大津波が襲ってくるように〈飽き〉が来るのではない。〈飽き〉は静かに、本人の知らぬ間に侵触してくる。これが一番恐ろしい。
 晩年の談志は「何をやってもおもしろくねえ」と言っていたそうだが、これは病気と老いからくる弱気とだけは受け取れない。自分が最も愛した落語自体に飽いてしまったという、本質的な問題が潜んでいる。









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