どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載18)





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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載18)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正



  落語界の革命児

談志を落語界の革命児、落語界の狂人、というのはどういうことか。じっくり考えてみたい。まずは赤塚不二夫との対談での言葉を検証することにしよう。

  談志「落語もね、なかなかいいよ。(談志の弟子・志の輔のこと。引用者清水・註)『千両蜜柑』を聴いたけど、よく作ってあると思ったね。新作もよく出来てる。よく出来てるっていうのはどういうことかってえと、パズルがちゃんと埋まってるってことなんだよ。逆に、今の若い奴らの咄っていうのは、ちゃんとパズルが埋まってる『野晒し』だとか『道灌』とかっていう咄を、それをまずちゃんとやってからいろいろやればいいのに、ちゃんと出来もしねえうちから、ちゃんと埋まってるバズルをぶっ壊しちゃったりする奴が、ほとんどだ。ぶっ壊すのも意志があってぶっ壊すんじゃなくて、何もわかんなくて、ガキがぶっ壊すみたいに壊す。いや“壊してる”という意識もないから始末が悪い。もう落語を諦めてますから放ってあるがね、家元は。」(150〜151)


こういった談志の話は面白い。わたしは、批評はテキストの解体と再構築にこそその醍醐味とあると思っているので、談志の言っていることと共通性もある。わたしの作品批評も再構築に重点を置けば、限りなく創作(小説)に近づく。若い頃は小説を書こうとしていたから、テキストを解体しながら、落語家として再構築化をはかっている談志の言葉はよく理解できる。
  一度解体し再構築化した落語をそのまま演ってくれれば問題はない。談志は落語の最中に、解説・批評の言葉を発するので、それが耳障りになる。落語批評家・立川談志が実演を交えながら落語論を面白おかしく展開しているのだと割り切ってしまえば、そういうものとして納得できるのだが、談志があくまでも落語家にこだわりながら、解説的な言葉を挟むので、その優越的・サービス精神がうるさく感じて不快になるのである。
  自分の落語に過剰に自意識が働き続けるので、実演の熱中よりも自意識の作用が強くなると、実演が自意識の侵入を許してしまう。それは落語家としては失態であり、滑稽な事態なのであるが、談志は力わざで強引に乗り切ってしまおうとする。寄席の軽業師、ピエロがそのことを十分に意識しながら、それを素直に認めて落語の幕をおろすことができない。
  落語を最も愛し、誰よりも落語論を展開できる、言わば過剰な落語愛好家であり鋭利な落語批評家である談志が名人落語家の振りを精一杯に演じて見せなければ舞台の袖に引っ込むことはできないのである。
  落語家が咄を不動の脚本としてとらえ、それを忠実に演ずるというのであれば、脚本と演技がまずは問われることになろう。アドリブなどいっさい許さず、あくまでも脚本通りに演ずる。となれば、落語家にまず第一に要請されるのは厳しい稽古に裏打ちされた職人芸ということになろう。師匠から弟子へと落語は忠実に伝承されることになる。
  こういった伝承芸としての落語をきちんと後生に伝えようとする落語家たちにとっては、伝統を現代向けに再構築しようという談志の落語思想は単なる改革運動を越えて一種の脅威となったに違いない。改革者はいつの時代においても、体制側にとっては邪魔者であり脅威者となる。体制側が強大な力を備えていれば、こういった改革者は異端分子としてすぐに抹殺されたであろう。





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