鷹尾俊一氏の『横たわる像』を見る




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鷹尾俊一の彫刻『横たわる像』に関しては「文芸批評論」「雑誌研究」で各二回ほど講義した。伊藤景さんはわたしの授業のタスをしており、この講座のビデオ撮影を担当している。今回は伊藤さんのレポートを紹介する。

2014-11-11 「文芸批評論」で高尾俊一の『横たわる像』について講義する。




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鷹尾俊一氏の『横たわる像』を見る

伊藤景 芸術学研究科博士前期課程在学

 はじめて鷹尾俊一氏の彫刻を目にしたとき、恐れを抱いた。そのために、江古田校舎にあるA&Dギャラリーに入ることを躊躇した。そして、そのままガラスの扉越しに眺めてから逃げ帰ってしまったのだ。11月11日、文芸批評論の講義で清水先生から鷹尾氏の彫刻についての批評を聞いて、私はなぜ自分が鷹尾氏の彫刻から逃げ出したのかようやく理解することができた。私は像に秘められた強さに自分が太刀打ちできないと直感したから逃げ出したのだ。この身一つでは、圧倒的な存在感を放つ像の前に立つことはできなかった。そして、赤裸々なまでに女性を体現するこの像を受け入れる心構えができていなかったのだと、今更になって理解ことができた。
清水先生による鷹尾氏の彫刻「横たわる像」についての批評の中で私が最も興味深いと感じたのは、像のポージングに関するものであった。
「横たわる像」の手は、宙に向けてなにものかを受け止めるかのようでいて、強張り拒絶するかのように固まっているかのようにも受け取ることができる。清水先生はこの手から「苦悶」を感じたとおっしゃっていた。神に嘆き抗議するヨブであり、カムパネルラとの別れを嘆き悲しむジョバンニといった彼らの苦悶と「横たわる像」の苦悶は類似しているのだと清水先生は教えてくださった。この像の右手はどこか痛みや快楽といった抗いがたいものに耐えるように、不自然でいて自然な形で時を止められている。左手はまるで赤子を撫でるかのように優しく指が広がり、なにものも拒もうとしない母のような印象を受ける。この両手を見ていると「愛憎」という感情が具現化したかのように思える。
この像は女性である。女であると同時に母であり、どこか初心な娘にも、それと相反する娼婦のようにも見えてくる。この像は性愛的なアプローチを拒む像であると清水先生はおっしゃっていた。しかし、その絶対的な拒絶からこそ性愛の絶頂をも感じさせるのだと教えていただいた。足をクロスし、何者も受け入れないとしているように見えて、正面から彼女を眺めるとどこか男を誘うかのように妖しく太ももから膝にかけてのラインに隙間が見える。開きそうで開くことはない。この絶妙なバランスから、私は女を感じた。
母である苦悩。無垢ではいられない少女の苦悩。男を受け入れなければ繁栄することのできない女の苦悩。この像からは、女が抱える苦悩を感じることができる。身体からは力一杯に何者にも触れられたくないと拒絶するオーラが滲み出ているが、どこか男を誘惑するオーラも感じることができる。この像は肩に力を入れてまですべての者を拒絶しているはずなのに、表情は穏やかさを感じさせる。固く目を瞑り、首を背けていれば拒絶さの塊だとも表現できるが、この像は首を仰け反らせ、今にも口は開きそうなほど弛緩している。いからせた肩までも、まるで荒い呼吸を繰り返している姿の一瞬を留めているように見えてくる。
この像は、見る角度によって観客の創造力を大きく刺激する。少し腹が歪に出っ張っている姿は女の持つ、拒絶と抱擁といったように相反するカオス的な感情を腹の中で消化している経過のように見えてくる。一部では感情を消化し終わったから凹み、まだ消化しきれない感情は出っ張りながらもドロドロに溶かされているのではないか。独りでは生きてはいけないか弱さを細い肩から感じるが、存在感があり、柔らかさまで感じられる尻からは母のような力強さを感じる。これらすべてを内包したこの「横たわる像」こそ、宇宙の母なる存在なのだろう。そして、地球上を生きる女性一人ひとりの真の姿なのだ。この愛おしい母なる像を背中からそっと抱きしめてみたとき、「横たわる像」がなにを囁いてくれるのか。私は彼女の声が聞いてみたいと強く思った。



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