どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載11)

どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載11)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


危険な笑いーー危険な笑いを、テレビタレントに求めるのは所詮無理



 『天才バカボン』の作者赤塚不二夫は天才ギャグ漫画家、立川談志は天才落語家、タモリは天才タレント、手塚治虫は漫画の神様、石ノ森章太郎は漫画の王様、‥‥お笑いや漫画の世界は天才や王様や神様がほんとにお好きなようだ。しかもこれらの形容をギャグではなく大まじめに受け止めているようにも見える。
 持ち上げられ、賛美されたら、もうおしまいだろう。〈神様〉〈王様〉〈天才〉などともてはやされたら、もはや体制側にとっては何の危険もなくなったということの明確な証なのである。もっとも初めから、体制側に認知され、人気者になることを目指している程度の〈お笑い〉なら、何をか言わんやである。
 お笑い、ギャグが成立するためには、まず権力、権威、タブーが存在しなければならない。確乎不動の犯してはならないものがまず存在しなければ、皮肉、嘲笑、罵倒、風刺、ギャグ、パロディ(戯画)ば成立しない。権力・権威のないバカに向かってバカと罵っても、そこに笑いは生じない。それは単なる質の悪いいじめにしかならない。罵る者と罵られる者との間に圧倒的な開きがあれば、それはもはや虐待である。権力者に向かってバカと言ったときに、初めて緊張が生まれ、うまく逃げおおせたときに笑いが生まれる。もし捕まって死刑にでもなれば、それこそ笑い事では
なくなる。
 ドキドキハラハラする危険な笑いを、テレビタレントに求めるのは所詮無理である。お笑い界の人気者である明石家さんま鶴瓶はもとより、タモリや談志もテレビ界で奇人変人ぶりをいくら発揮したところで、所詮、出演した時点ですでに〈体制側〉に取り込まれている。テレビの魔性とはすごいもので、たけしやタモリの毒気など、時間をかけてなしくずしにしていく力を備えている。換言すれば、テレビの魔性に魅入られた者だけが人気者となるということである。