どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載10)

どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載10)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


法の許す限りでのギャグ



日本国内の雑誌媒体で作品を発表する限りは、日本の法律内におけるギャグしか発表を許されない。法に触れるギャグを発表すれば起訴・処罰の対象となる。常識を逸脱しながら、法の許す限りでのおふざけしかできないということである。もちろん法に触れる覚悟でギャグ・ナンセンス漫画を発表することはできるが、しかしその場合は〈犯罪者〉の烙印を押されることを覚悟しなければならないし、まず連載は不可能である。
 わたしが生まれた1949年以降に限っても、〈お笑い〉(落語・漫談・漫才)やギャグ漫画で起訴されたり、逮捕されたりといった事件をきいたことがない。「赤塚不二夫・公衆猥褻罪で逮捕」なんて報道されれば、少しはギャグ漫画の驚異・脅威を体感することもできようが、今や赤塚不二夫のギャグは教育団体からもクレームがつかないほど社会的に認知されてしまった。これは社会の側が赤塚ギャグの毒気を見事なほどに吸い取ってしまったことも意味している。ビートたけしタモリもテレビに出たての頃は、毒気たっぷりであったが、今や完璧に制作者サイド(すなわち体制側)に与するようになってしまった。
 売れるためのお笑いや漫画は体制側ぴったりであってもいけないし、妥協のない反体制であってもいけないという見本が、人気お笑いタレントや漫画家にあてはまる。社会が許容する〈常識〉の尺度などというものは不断に変動するものであるから、その変動にいつも敏感でなければならない。その都度〈常識〉を見定めた上で、どこまでが許される〈非常識〉なのかを考慮して〈おふざけ〉をしなければいけない。いつ、どこでなら許され、笑いがとれるネタなのかを見誤ると、単なるスキャンダルではすまされなくなる場合がある。江頭2:50におけるトルコ裸騒動(1997年2月15日)がいい例である。ひとつ間違えると死刑にさえなりかねない。
 おそらくお笑いを仕事にしている芸人や漫画家は、いつもタブーを犯しきってしまいたいという誘惑にかられているにちがいない。この誘惑を感じなくなってしまった者は、すでにお笑いにかかわる資格はない。ましてやそのことに気づいていない者はもはや論外である。
 キンタマを出しても、ケツの穴を見せても、誰も笑わなくなったときに、赤塚不二夫は次にどういった〈おふざけ〉をたくらむのだろうか。キンタマをカミソリで切り落としたら衝撃を与えるだろうが、それは残酷過ぎて笑いをとることはできないだろう。しかし、戦争の最中に敵のそれを切り取ったら、笑いが起きる可能性はある。人間とは条件さえそろえば何をしでかすかわからない動物なのだ。
 ネット社会の今日、テレビ・新聞の〈常識〉領域の報道など、ほとんどのひとがまともに受け入れていない。ネット機能を自在に操る若者たちは、マスコミ報道などに惑わされることはなくなってきたし、マスコミが伏せて報道しない写真、映像なども容易に見ることができる。建前と本音の二重構造社会の中で生きている日本人の若者たちは、ネットに無頓着な者たちよりはるかに多くの情報を入手しながら、日本風の〈常識〉(建前)をわきまえている。こういった社会の中ではもはや〈キンタマ〉ネタなどまったく通用しないだろう。


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