どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載9)

どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載9)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


赤塚不二夫の〈常識〉外常識


 赤塚不二夫荒木経惟との対談で「いろんな常識とかあるじゃないか、ねっ。そんなのにズーっと引きずられて生きちゃ駄目なんだ、なんだっていいんだよ。だからキムチンが金玉出して踊ればいいんだよ。俺もキンタマ出すよ、ケツの穴も見せていい。ハハハハハ」「人間ってね、バカじゃないとダメっ、なっ。バカ同志だもんなぁ」と言っている。
 こういった赤塚不二夫の発言は、今日ではすんなりと受け入れられている。『天才バカボン』が大ヒットし、今や赤塚不二夫はギャグ漫画の神様扱いで、彼を批判するようなひとはいない。赤塚は〈常識〉を批判するが、彼自身は社会生活を漫画家として生きていく常識をしっかりと守っている。
 ギャグは社会の権威や硬直化した常識に揺さぶりをかけるが、だからといってそれらを根こそぎにするわけではない。社会常識からの徹底した逸脱者は社会から抹殺される宿命にある。
 漫画やテレビ番組でのギャグやお笑いは、権威や常識にさしさわりのない程度においてしか揺さぶりをかけることはできない。雑誌やテレビのスポンサーを批判するギャグやネタは絶対に許されない。子供相手のナンセンス・ギャグ漫画が、その発表舞台となっている雑誌や出版社や編集者を厳しく批判したり揶揄したりすることは許されない。そういった類のものは予め社内検閲の時点でボツにされる。
 赤塚不二夫はかなりの常識人で、バカをしでかす場所とその場に存在する人間たちの性格をよくわきまえている。そこでは、赤塚不二夫キンタマを出そうと、ケツの穴を見せようと、それは一種のギャグとして許容される。もし同じ事を、公衆の面前で行えば、彼は容赦なく公衆猥褻の罪に問われるだろう。
 ギャグやパロディは国家の基盤をも揺るがしかねない恐るべき破壊力を発揮する。だからこそ、いつの時代でも権力・権威者は〈笑い〉を恐れる。教会権力はイエスが大口を開けて笑ったり、大小便をしたり、セックスしたりすることを厳しく禁じている。もしそういった場面の絵でも描かれて、多くの者の目に触れるようなことがあれば、神自身の権威が危うくなる。
 限定された場所で、遊び仲間の間だけで、キンタマ出してバカ騒ぎしても、もちろん誰からもとがめられることはない。それは許容が前提になった安全なバカ騒ぎに過ぎず、本人にとっても周りの者にとっても何ら危機的緊張感はない。赤塚不二夫が国会の前とか、教会の内部でキンタマ出して駆け回ったときに、初めてナンセンス・ギャグの衝撃性が発揮されるのであって、そうでなければ安全圏でのおふざけにしかならない。