どうでもいいのだ;">──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載8)

どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載8)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


受け手(読者)をバカ呼ばわりしていること



赤塚不二夫の対談集を読んでいて気になったのが、彼が受け手(読者)をバカ呼ばわりしていることだ。

「笑いの本質っていうのがあって、送り手と受け手ってのが必ずあるわけだ。送り手がいくら層の厚い話をしてもね、受け手がバカだとなんだか上滑りしちゃうんだよ」(149)
「今の受け手はダメなんですよ。わかってない」(204)(談志との対談)
「だけど、受け手がバカだから、できないっていうのもあるよな」(267)
「受け手がバカなんだよ!」(271)
「だから、北野監督がハリウッドに行って「世界も日本の受け手もバカ野郎!」って言わなきゃダメなの」(273)(たけしとの対談)


「そうそう、たとえば送り手がいくら深い奴だとしても、受ける方がバカだったらさ、跳ね返ってこないからスーって通り抜けちゃうでしょ、ギャグが。これが大変なんですよね、お笑いの世界って」(397)
「あとね、もっと日本の受け手を批判してもらわないと困るよ」(444)(人志との対談)

ざっとひろいあげただけでも、これだけ受け手批判がある。バカな受け手の個人名が記されているわけではないから、当の批判されているバカが、自分を棚にあげてそうだ、そうだと頷くかもしれない。
 文芸批評の場合は、読者がきちんと文章にして批評するわけだから、その評家が赤塚不二夫の言う〈バカ〉かそうでないかはそれなりに見分けがつく。が、ナンセンス・ギャグ漫画の読者の大半は、漫画批評などせずに作品をそのつど消費していくだけだろうから、その実態を掴むことは困難を極める。
 それにギャグ漫画や子供漫画の作品批評がほとんどなかったことで、具体的に漫画作品がどのように読まれてきたのかを知ることができない。赤塚不二夫の〈受け手がバカ〉発言は、彼のいらだちを伝えはするが、曖昧な点があることも否めない。
 談志の場合もそうだが、受け手をバカにする場合、彼自身は自分のことを高く評価しているということになる。談志と赤塚不二夫の違いは、前者が過剰に〈おれ様〉意識を全面に出してくるので、一部の人間からは過激に嫌われるの対し、赤塚不二夫の場合は相手をいくら罵倒したり、受け手をバカ呼ばわりしても、そこになんとも言えないあいを感じてしまうところにある。