鷹尾俊一彫刻展を観て 姿の崩壊と誕生〜さまよう人の像


鷹尾俊一彫刻展を観て
姿の崩壊と誕生〜さまよう人の像


山添南海子 芸術学研究科博士後期課程在学

撮影・清水正(2014-11-22)日芸江古田校舎アートギャラリーにて。



撮影・清水正(2014-11-12)日芸江古田校舎アートギャラリーにて。

 人が崩れていく、かつてらい病のように人間の身体が崩壊していく病が存在し、地雷のように人間を木(骨)端微塵に分解してしまう兵器が存在する。人間の身体が徐々に崩壊していく姿に対して、我々は目を背けたくなる。同じ人間の器官を持つものが命を崩していく姿を目にして、それを自分へと置換すれば、自らの死を伴うことになるからだ。
 いくつもの「像」が崩壊寸前のぎりぎりの状態で目の前に現れ、その姿は崩れていくのか、それともこれから鮮明な姿を成すのか?鷹尾俊一の世界は地から天にむかってその姿を崩壊させているように見えるし、また地からぼんやりと出現し鮮明な姿を表す直前にも見える。
 最初にインパクトがあったのが「青い大気」である、鮮明な顔の形であるが、風が吹けば即座に崩れてしまいそうである。見た瞬間にペルソナの崩壊について考えずには居られなかった。現代人にとってペルソナによって周囲の人に自分の本当の表情を隠すことは至極当然とされている。自分の感情の赴くままに生きている人間は身勝手であり、時に異常であるという通念を見ず知らずのうち身につけ、ペルソナによって協調することが当たり前という認識を得ていくのだ。ペルソナは強固な仮面となって、相手に対して自分が敵意のない存在であることを証明し、また不要な存在ではないと立証するために被るものである。
 だがペルソナは仮面を被っていた相手と相互の関係が強固になるにしたがって簡単に崩壊することがある。隠していた顔、身体が現前し、それまでは見せたことのない素顔へと変貌していくのだ。意外な一面という表現がなされているが、意外などではなく見せたくない素顔の一部であって、それは元来内在している性質である。ペルソナが崩壊して素顔へと戻っていく、そんな状況を連想してみた。しかし簡単に自らのペルソナが崩壊しないことに気づかされた。現代社会において人間が一人で生きていくのはとても困難である。自ずと対人関係を築くことになるのだが、そこには相性、性格性など一部、または全ての人間、時には家族に対しても仮面を被せた自分で対峙し生活を送っていくことになる。
 不都合な自分をどこかへ葬り去って、生きていくことは実は脆く、危ういバランスの上に成り立っている。その事実を「青い大気」は先鋭に突きつけてくる。本当に素顔に戻るときが、死ぬ時であればこの世界に存在したのは自分なのか、自分のペルソナなのか?またその一方でまっすぐに生きる、素顔で生きると周囲との齟齬や孤立が待ち受けている可能性が高く、時に死と向き合うことになる。現在では素顔で生きること、本能で生きていくことが難しいのが人間という生物なのだ。
 鷹尾俊一展の会場全体を見渡すと、像の姿は新たに生きていこうとする姿と崩壊していく姿とどちらにも見えてくる。素顔で生きられない人間が病、兵器によってペルソナではなく、身体が崩壊させられるなど人間の生と死には捻れがつきまとう。そのような人の生と死の捻れが展覧会の空間を支配していた。生きることに無頓着になってしまった現代人が気づかない捻れを鷹尾俊一は像に現前させているのか?そう思わずにはいられなかった。自分の捻れと素顔を葬り去って生きている。現前に出された像を前に自分の素顔の存在が、分からず考えねばならないという事実に愕然した。鷹尾俊一の像はそんな自分の存在を鋭く剥かせていくものであり、なんとなく自分の中に封じ込めていた矛盾を認識させる。捩じれて、戻れない、被せて、外せない、恣意的に人間が起こしてしまった矛盾を鷹尾俊一は像の姿によって現前させている。鷹尾俊一展にて無意識にしていた自分の捻れを、身体が気づいてしまったのだろう、あの日から自分の身体が捩じれている気がして仕方がない。