鷹尾俊一氏の彫刻にふれて

鷹尾俊一氏の彫刻にふれて


入倉  直幹 芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻一年

 鷹尾俊一氏の個展の中で、私の心を強く打ったのはアートギャラリーの中央に位置していた、立っている人間の彫刻である。作品のタイトルは「像」。誰もいないアートギャラリーは圧倒的な静けさがたまっている。その中でぱっと視界に飛び込んできたこの像が私の心を掴んで離さなかったのである。私の足は自然とその像に向かっていた。

撮影・清水正(2014-11-20)日芸江古田校舎アートギャラリーにて。


 この像と対峙した時まず私が思ったのは、はたしてこれは男性なのか女性なのか、ということである。顔は男性的、どことなくビートたけしに似ている。だがしっかりとした乳房はあるし、身体のライン、特に腰から尻にかけて非常に女性的な丸みを帯びている。性器はどちらのものもついていない。この像は人間のどちらの性別をも内包している存在だと言えるのではないか。
 もっとも印象深かったのは、この像は身体の大部分から突き出ている棒状のそれである。棒状のそれらは長短様々ではあるが、どれも決まって像の右(向かって左)側から左(向かって右)側に、わずかに婉曲しながら身体に沿うようにして伸びている。棒状のそれら、と形容したが、それは本当に細い棒状になった鉄が体内の奥底から皮膚を突き破ってきたものとも、身体を流れる血管やあるいは骨が目に見える形として顕現したものとも思える。それらの断面は刃物で切り落とされたように突然平たくなっていて、どことなく緊張感が漂っている。
 しかしそれらが棒状の鉄や血管、骨ではないと私は直感する。そして、それが樹の根であり枝なのだと私は確信している。なぜなら、その像の背中、人間で言えばの脊椎にあたる部分に唯一つだけ他とは違う方向に生えているものが存在するからだ。それは脊椎のように太く、像の後ろで悠然と立っている板とつながっている。もちろんこの板は像を自立させるために存在しているのであろう。だが私には自らの足以外の部分、脊椎動物たる人間の本来の意味での中心に位置する脊椎が体外に出て板と交わることで一体化し、大地に接しているように感じる。
 また、脊椎の中には脊髄が通っている。神経が大地と交わっているのであるから、そうしたならば、樹の根や枝は皮膚を突き破っているとは考えにくい。むしろ大地と同化したこの人間像の皮膚の上からまるで体毛が生えるかのように、自ずから伸びているものだと考えるのが自然だ。加えて、左手がわずかに上げられたポージングも、樹の根や枝が伸びる方向を考えれば、人間と大地が溶け合っているということの象徴であろう。
 この像は人間(=動物)であり大地から伸びる樹(=植物)である。しかしながら、そのどちらでもなく、この像は境界に存在しているように思える。つまりは生命そのものなのだ。そのように見れば、像がどちらの性別にも受け取れたのも、この作品のタイトルが「像」なのも納得できる。像を一見すると明らかに人間だ。樹木でもなければ、人間以外の動物にも見えない。しかし、鷹尾俊一氏は人間を追求して究めた先に、生命そのものを見て、そしてこのように彫刻で具象化したのではないだろうか。