ラビット・マイの惚れよい放浪記(1)


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


ラビット・マイの惚れよい放浪記(1)
ラビット・マイ




やがて草餅になるまで。

一昨年、享年85歳で亡くなったウチの祖父はひとことで言うと「クソじじい」でした。
でも、なぜか、85年間、人々に愛され続けた、愛されじじいでもありました。
祖父は、人生で一度も定職につかなかったのですが、常に誰かが支えてくれていて(主に女性)、老後もどこかのおばあちゃんを口説いてはお小遣いをもらい、パチンコをしたり、自転車でふらふらしたり、草餅を食べたり、それなりに幸せに暮らしていました。

そんな、ウチの祖父の紹介をさせていただきます。

1927年とか多分それくらい、貧しい家の末っ子として生まれました。4人の姉に可愛がられて育ち、祖母と出会って結婚し、子供を持ち、孫が生まれ、自転車で徘徊中、2回、車にはねられました。ざっくりいうと、こんな人生です。あ、自転車を盗んで捕まったこともありました。
ある意味、才能と言えるほどの無責任さを持っていて、ポジテイブとは少し違う「なにも考えない」の天才でした。だから、チャリを盗んで警察にパクられた時も、どこか他人事のように「捕まっちゃったぜ」くらいのノリでヘラヘラしていたのです。
祖父は、自分の名前にすらいい加減で、戸籍の名前と本人が名乗っている名前が違っていました。戸籍では確かに「ひでお」。なのに、本人はなぜか「よしお」と名乗っていました。周囲の人間にも「よしお」と認識されていて「よっちゃん」と呼ばれていました。
「おじいちゃんは、ひでおって名前じゃないの?」と何度か尋ねたことがあります。その度に祖父は「ひでおはいけん名前じゃけぇ、よしおがいい」と答える自由っぷりでもありました。
祖父を古くから知る人は「あいつはボケてるんじゃない。もともとああだった」とさえ言います。

そんな祖父ですが、私が小さい頃は、忙しかった母に変わって面倒をみてくれていました。面倒をみてくれていたといっても、服を着替えさせたり、おむつを替えたりは出来ませんでした。もちろん、お風呂なんかも入れられません。その上、私の母からもらった食事代はパチンコに使っていました。なので、常に私はお腹が空いてたし、臭かった。祖父も臭かったし、多分、祖父も常に空腹でした。
ですが、祖父なりには一生懸命世話をしてくれていたようで、空腹を紛らわすためにスイ葉(雑草)をしゃぶらせてくれて、裏山に落ちている柿(他人の家の)を食べさせてくれたり、サワガニ(野生)を捕まえて茹でてくれたりしていました。それに、祖父は保育園の送迎を欠かしたことはありませんでした。小柄なおじいちゃんがママチャリの前カゴにちっちゃい私を乗せて保育園まで送って行く姿は、ちょっとした町内名物にもなっていました。雨の日も風の日も雪の日も、私を前カゴに乗せてえっちらほっちらと…。
そういえば、他人の畑の横に自転車を停めて、畑の中に入っていき、もぎたてのトマトときゅうりを持って出てきたこともありました。今思うと、祖父は畑泥棒もしていたんだなぁ。今どき、めずらしいなぁ。


ウチの祖父はただのろくでなしのようですが、ウチの祖父は「それでもいいか」と人に思わせる魅力を持っていました。人生で一度も自分を責めた事がないせいか、いつだっておおらかでした。いい意味で物事を深く考えたりもしなかった。だから、きっと、毎日を幸せに過ごせていたのではないでしょうか。 
そういう祖父の人生は、「人生なんて適当なくらいがちょうどいいんだよ」と、語っていました。「生きているだけでいいんだよ」と。
こういう生き方もあっていいんじゃないでしょうか。私は、ちょっと嫌ですけど。

※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。