どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載5)


どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載5)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から
清水正


たけしと映画


たけしは大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に出演して、俳優としての存在感を見せつけた。この映画をわたしは評価しないが、たけしの軍人役は説得力があった。たけしはラジオ番組(オールナイトニッポン)で、この映画製作現場での出来事を面白おかしく語って大いに宣伝マンの役割もはたしていた。わたしはたけしがこの映画に出演したことが、監督デビューのひとつのきっかけになったと思っている。これぐらいの映画なら俺でも作れる、とたけしが思っても不思議ではないような出来の映画だった。デビッドボーイ、ビートたけしをキャスティングして話題を作ったはいいが、その映像にこれといったインパクトはなかった。映画は莫大な金がかかり、一度失敗すると致命的な負債をかかえることになるので、前評判をとりたい気持ちはわかるが、いずれにしても面白くないものは面白くない。
 北野たけしの映画については『ビートたけしの終焉─神になりそこねたヒーロー─』(1995年3月 D文学研究会)で『ソナチネ』と『その男、凶暴につき』の二作品を批評した。わたしが担当する「文芸批評論」の受講生の一人(映画学科四年生)が北野監督の作品、特に『ソナチナ』を授業で取り上げてほしいという要請があったので、さっそくレンタルビデオ店に行き、『ソナチネ』を借りて観ることにした。観て、これは批評してもいいな、と思ったのでセリフを忠実に写し、すぐに批評にとりかかった。
 『その男、凶暴につき』は野沢尚のシナリオを読んで、それがまったく無視されているような扱いに怒りを覚えたが、野沢尚自身はそれほど気にしていないようだった。しかしわたしは、シナリオがこんなに変更されてしまっては、シナリオライターの存在とはいったい何なのか、と疑問に思った。いずれにせよ、野沢尚のシナリオ作品と北野武の映画作品は水と油ほどの違いがある。

 野沢尚日芸映画学科出身でわたしの後輩でもあるので、一度、文芸学科の特別講座に来てもらったことがある。時は2002年1月17日で四年生はほとんど大学へは来ない時期であったが、受講生は教室に入れきれず立ち見も出るほどの盛況であった。(野沢氏の当日の講演模様は「清水正研究室」http://shimi-masa.com/?p=67で紹介してある)。
 野沢氏には文芸学科の専門科目「シナリオ研究」を頼みたかったのであるが、残念ながら多忙過ぎて引き受けてはもらえなかった。一度だけなら都合がつくということで、特別講座に来てもらったのだが、教室にあふれた後輩たちを前にして伝えることの喜びを感じたようだった。いずれまた、講演してもらいたいと思っていたのだが、2004年6月28日に自殺してしまった。