鷹尾俊一の彫刻──「横たわる像」をめぐる超想(3)──


鷹尾俊一の彫刻
──「横たわる像」をめぐる超想(3)──

清水正


 

 2014年11月11日午後二時、わたしは鷹尾俊一の彫刻展が開催されている日芸江古田校舎のA&Dアートギャラリーにいた。「横たわる像」の写真撮影のためである。わたしはこの彫刻像に強烈な磁力を感じる。この日は「横たわる像」が「命がけで立っている死体」であることの証を求めた。「横たわる像」が天と地を貫く垂直像であることは撮影した写真で証明されるだろう。台座で支えなければ設置できない「横たわる像」が、実は垂直に立った立像であり、宙空を浮遊する停止像でもある。わたしはこの「横たわる像」にしばし暗黒舞踏の舞を視た。



命がけで立った死体の、その立ち姿と、歩行を見よ。


 立ち上がろうとして立てない、歩こうとして歩けない、飛ぼうとして飛べない、生きようとして生きられない、その呪詛と祈りの砂漠の或る一点にとどまって死体が命がけで舞う、暗黒舞踏の時空がはてしなく広がる。「横たわる像」の空洞と化した目は虚空を凝視し、それを見つめる者をもはてしない虚空へと誘う。虚空の砂漠に垂直に立つ「横たわる像」の奇蹟に撃たれた者の目に映る〈死と蘇生〉の艶めかしい秘儀の瞬間。
 「横たわる像」の顔を斜めにそり返した首筋にはエロスが充溢している。この死体は、生きている女の柔肌をはるかに超えて性愛的な肉体性を保持(誇示)している。硬直した両脚は堅く閉じられ、あらゆる性愛的なアプローチを拒んでいる。にもかかわらず、この絶大な拒否の形が、同時に性愛的エクスタシーの形と重なっている。

 死体が艶めかしい肉体を奪回し、性愛の絶頂を露わにする。エロスとタナトスの一瞬の合一を顕わにした「横たわる像」の神秘。
 ドストエフスキーは兄ミハイル宛の手紙(1839年8月16日)で「人間は神秘です。その謎は解かなければなりません。そしてそのために一生を費やしたとしても、時間を空費したとは言えません。ぼくはこの謎に取り組んでいます、なぜならぼくは人間になりたいからです」と書いた。
 鷹尾俊一もまた、彫刻を通して徹底的に人間の神秘を追究し続ける作家である。人間は神秘を解き明かすことはできない。が、神秘に直面し、その神秘を顕すことは可能である。詩人は言葉で、絵描きは色彩で、音楽家は音で、舞踊家は舞で、彫刻家は彫刻でそれを表現することは可能なのである。わたしは鷹尾俊一が人間の謎を解くべく格闘し続けた、その〈空費〉ではなかった、半世紀にわたる時の積み重ねにも感動を覚える。


鷹尾俊一彫刻展「像」
日芸江古田校舎 A&Dギャラリー・アートギャラリー
2014年11月5日〜11月22日まで開催
10:00〜18:00(日曜休み)