鷹尾俊一の彫刻──「横たわる像」をめぐる超想(2)──

鷹尾俊一の彫刻
──「横たわる像」をめぐる超想(2)──

清水正


 鷹尾俊一の彫刻と対面していると、次々に連想が湧いてくる。これは鷹尾俊一の彫刻にいろいろな強い想いが込められている証である。昨日、わたしは「「横たわる像」をめぐる超想」と題して、鷹尾俊一の彫刻に対する想いを記した。この文章は一人鷹尾俊一に向けて書いたもので、いっさい説明はしていない。鷹尾俊一の魂に直に投げた球であるから、観客がどのように想うかは考慮していない。久しぶりにこういった球を投げられることの喜びを感じた。
 展示されていた作品の中で最もわたしの魂を直撃したのは「横たわる像」であった。この像はギャラリーの中央に座しており、鷹尾俊一にとっても中心点という無に位置する作品である。この作品は無像であることによって有像として顕現している。
 この有像の姿に、わが魂の慄えをもって神に問うヨブの嘆きを聴き、「舞踏は命がけで立つ死体である」という暗黒舞踏の秘儀を体現した土方巽の舞踏を視た。鷹尾俊一の彫刻像は深い悲しみと怒りに全身を震わせ、ひとり静かに慟哭したものにしか顕現しない像なのである。
 「横たわる像」は横たわっていない。横たわる台座などどこにもない。横たわる場所を喪失した人間の呪詛の叫びが耳をつんざく。愛するものを失ったものの慟哭をジョバンニと宮沢賢治のそれに重ねてもいい。宇宙の果てまで届け、この悲しみをと、銀河鉄道の列車の窓から身を乗り出して叫んだ声が聴こえる。「横たわる像」の口から、否、身体全体から呪詛の、苦悶の叫びが発せられている。
 呪詛の、苦悶の、悲嘆の、慟哭の果てから、祈りの無音の声が聴こえてくる。呪詛と苦悶と慟哭の震える両手が、究極の一点においてそのまま受け入れる愛の手となる、その瞬間をとらえた像が「横たわる像」と名付けられて、宇宙の、砂漠の中心点で顕現した。
 「ぼくは教会へ行って、みんなと一緒に賛美歌を歌いたいんだ。けれど、ぼくはこの悲惨と不条理に満ちたこの地上の世界を認めるわけにはいかない。神の存在は認めても、ぼくは神が創造したこの世界を認めない」(わたしの魂に刻まれた言葉で、テキストどおりではない)と叫んで、最後には狂気に陥ってしまったのがイヴァン・カラマーゾフであった。
 鷹尾俊一はイヴァンのような神への反逆に突進して、狂気の淵へと呑み込まれることはない。ドストエフスキーにおける神と、鷹尾俊一における神とは明確に異なる。神の存在はドストエフスキーを一生涯にわたって苦しめた問題であった。鷹尾俊一においては、神よりも存在(有)が問題になっている。キリスト者にとっては不遜にきこえるだろうが、神をも包み込む存在(有)が〈無有即空〉を前提にして顕現したのが鷹尾俊一の彫刻像である。

鷹尾俊一彫刻展「像」
日芸江古田校舎 A&Dギャラリー・アートギャラリー
2014年11月5日〜11月22日まで開催
10:00〜18:00(日曜休み)