鷹尾俊一の彫刻ーー「横たわる像」をめぐる超想ーー

鷹尾俊一の彫刻
──「横たわる像」をめぐる超想──(1)

清水正


 土がたっぷり水を含んでそのままに乾燥したようにも見える。埋葬された死体が掘り出され、天日干しされたもののようにも見える。いずれにしても鷹尾俊一の彫刻像には死と復活のテーマが埋め込まれている。彫刻像は死にゆく者、否、すでに死者でありながら、同時に再起を、復活した者であることを顕現している。土色の彫刻像は永遠の命を吹き込まれたミイラであり、死と命を内包する物質であり、人間存在の有を顕わにしている。
「横たわる像」の台座をはずせば、像は宇宙の時空へと飛翔し浮遊する。重力の魔から解放された〈像=有〉は〈無〉の大海に漂流する。彫刻の〈肌〉は無数の砂鉄を人間の身体像へと結集させたかのように見せて、この凝集力は一粒の剥落をも許さない。この強固な塊が、どれほどの柔軟さと同居しているかは、作者の自在な精神世界へと参入しなければわかるまい。鷹尾俊一の彫刻像の塊は、瞬時に微塵と砕けて無の大海へと溶解する自在さを備えている。
 人間身体の柔軟さにこだわれば、ひとは老いを恐れよう。が、どんなに努力を重ねても、人間は死すべき運命から逃れることはできない。死を克服するひとつの手段として、生きてあることの〈有〉を極限にまで押し進めて〈無〉へと至らなければならない。有即無の境位に至って初めて空(くう)に遊ぶことができる。この境位に至れば固さと柔らかさは同一性を獲得する。死と生が同居している空の世界から、鷹尾俊一の身体像が顕れ出る。人間存在の神秘に直面した者にのみ可能な身体像の顕現である。
 サハラ砂漠の広漠な時空に現出した身体像は、砂漠の地から発掘されたばかりの様相を見せながら、自在に空(くう)の時空に飛翔し、停止している。鷹尾俊一の精神世界へ参入するには「有即無 有無即空」の入場券を手にしていなければならない。身体像として顕現した物質の無を見通し、体感する者のみが、アートギャラリーの空間を広大無辺の宇宙と感じ、広漠な砂漠と体感できる。
 もちろんニヒリズムではない。虚無主義では鷹尾俊一の彫刻像は顕現してこない。憤怒と悲嘆を呑み込んだ虚無であり、このゼロの次元を通過してこなければ、死は命を獲得できない。固定し凝固した身体像が永遠の命を獲得することはできない。鷹尾俊一の彫刻像は、人間が生きてあることの諸相(喜怒哀楽)を体験した果ての虚無からの蘇生を体現している。
 開かれた両の手指が掴もうとしているのは何なのか。それは生きてある者には掴むことのできない死という神秘である。死とは永遠の安逸である。彫刻家鷹尾俊一は、生きてある限りは絶対に掴むことのできない、この神秘を身体像として顕現化した。これは一つの紛れもない奇蹟である。
 論理によっては神秘を解き明かすことはできないし、ましてや顕現化することはできない。ニーチェは論理的哲学者である前に一人の詩人であることによって、宇宙全般のディオニュソス的肯定者となり得た。永劫回帰の詩人ニーチェにして初めて存在の神秘と合体することができる。鷹尾俊一の彫刻像は直線的クロノスの過ぎ去りゆく一点に存在しているのではない。円環的クロノスにおける永劫の過去と永劫の未来がある一点においてクロスするその神秘の一瞬において顕現化した永遠の像なのである。
 虚無の砂漠で、祈りの声が聴こえる。救いを求める祈りではない。有るということ自体への祈りである。

鷹尾俊一彫刻展「像」
日芸江古田校舎 A&Dギャラリー・アートギャラリー
2014年11月5日〜11月22日まで開催
10:00〜18:00(日曜休み)