鷹尾俊一彫刻展を観る

鷹尾俊一彫刻展を観る

清水正


 鷹尾俊一の彫刻を初めて見たのは、日芸江古田校舎西棟一階、エレベータ前の壁に貼られたポスターにおいてであった。ポスターの写真、それが鷹尾俊一の彫刻作品の写真であった。この〈彫刻〉の存在感がただものでなかった。おや、こんなすごい彫刻の展示を日芸でやってんの、と思った。
 昨日5日、大学院の授業が午後一時からで、一時十分前に大学に着いた。少し時間があったので、アートギャラリーを覗いた。誰もいない。観客もいなければ、受付もいない。静かだ。空気が圧縮されている。アートギャラリーという空っぽ空間で初めて体感した凝縮された時空感覚だ。芳名帳に名前を記入し、プロフィールを読む。1950年生まれとある。芸術学部では一年後輩ということになろうか。失礼ながら彫刻家鷹尾俊一の存在を初めて知った。
 本物と出会った。ギャラリーには〈彫刻〉の姿を借りた人間が存在していた。人間が生きてあることの〈有〉が紛れもなく存在している。この〈有〉は、徹底して追究された果てに〈無〉となり、その〈無〉から自ずと立ち上がってきた〈有〉である。形を凝視しつくすと、そこに無があらわれる。その無の境位に遊べれば人生の達人となり、もはや創作衝動にかられることもなかろう。が、創作の魔にかられたものは、この無から有を現出させずにはおれない。
 無と有の狭間のある一点に形を凝固させる芸術家は、その狭間というゼロの一点に空を体感しながら創作の手を休めることはない。鷹尾俊一の彫刻は人間の内的世界の諸相を余すことなく詰め込みながら、同時にそれらを完全に消化しつくして空っぽの次元に昇華している。憤怒と悲嘆の両腕は果てしない闇の彼方に延ばされた果てに、真逆の光へと向かい、その瞬間に凝固する。
 鷹尾俊一の彫刻に他者(神)へ向けられた呪いさえ感じる。が、この呪いは悲嘆と憤怒を抱えたままに自己自身の内部世界へとも向けられていく。鷹尾俊一は人間の内的世界を外形(身体像)として造形している。これは人間の形をしているが、存在そのものの固まりであり、この固まりは無の一点から生じたものである。
 人間と向き合い、世界と向き合い、自然と向き合い、神と向き合い、自分自身と向き合い、饒舌な対話の数々をそぎ落とし、顔を、脳を、さらに体全体を空っぽにしたはてに、形となって存在したもの、それらがギャラリーの時空間に置かれて、観る者の魂を直撃してくる。

 悶え、葛藤、怒り、悲しみ、慟哭、あきらめ、生きながらの死、硬直した死体、迷いと憤怒のままの死体、が、ここにはまぎれもなく祈りの姿がある。人間の〈像〉、この作品に凝縮された鷹尾俊一の祈願。わたしはふと、ヨブの嘆きを耳にし、土方巽大野一雄暗黒舞踏を観るような思いにもかられた。アートギャラリーは水と土と火と風が交響する暗黒舞踏の時空へと化した。
 2014年11月5日午後1時、日藝の底力を感じた瞬間であった。