林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(3)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(3)


選ぶということ

生貝 恵美 

 



 人は皆、欲望のかたまりである。無意識のうちに何かを追い求めている。


 「浮雲」の主人公、幸田ゆき子は、人間の欲望を貫き通した女性である。「好きなものは好き」だし、「嫌いなものは嫌い」だ。
 反対に、富岡という男は、自分の「独占欲」という欲望に振り回されていた。そのせいでさまざまな女に目移りをする。
 例えば、ゆき子と富岡が出会った仏印での場面。妻の邦子を捨て、ニウと関係を持った。加野という男がゆき子に好意を持っていると知れば、いつの間にか好きになり、いつの間にかゆき子を自分のものにしていた。伊香保のバーの亭主からおせいを奪った時も同じだ。つまり、何人もの女をキープするような形である。初めはその「欲」を良いように使えていても、結局、自分だけ都合良く生きるなんて、無理なのだ。富岡は、自分の欲に振り回されていることにさえ気が付かず、ただただ疲れ果てた。そして、最後まで自分の気持ちを定めることが出来なかった。
 また、富岡にはこういう一面もある。「ゆき子が会いたいと言うから」「ゆき子が会いに来たから」と、ゆき子が接触を計れば一緒になる。頭の中に括弧書きで(もう自分はゆき子に、何も思いなんてないけど)と、必ず添えて。富岡は、「ゆき子のための優しさ」だなんて言いがかりをつけていたのかもしれないが、そんなの優しさでもなんでもない。ゆき子のことを思うのなら、なんとしてでも突き放すべきだった。
 しかし、ゆき子は、そんな富岡の中途半端に気持ちがくっついたり離れたりするたびに、富岡に対する思いが強まってしまった。自分の欲望のまま正直に生きていたゆき子だからこそ、そこから抜け出せず、より、富岡に対する愛の欲望で溢れていってしまった。


 人は欲望が手に入らないと気付いた時初めて、それを「壁」と言う。また、その時初めて「愛していた」ということに気が付く。


 私の去年一年間のモットーは、「自分の心の声に正直に」だった。私もゆき子と同じく、欲望のままに生きていた。そして、思ったことは声に出さないと伝わらないのだからと、思ったことは思いのままその時伝えることが正しいと思っていたし、何よりそれが格好良くて、素晴らしい行為だとも思っていた。

 しかし、男と女の問題は、そんな簡単なものではなかった。自分の欲望に正直に生きていたら、逆にいつの間にか自分だけがそこに取り残されてしまっていた、という経験のある人も少なくないと思う。どうしようもならないようなぽっかり穴が空いて、それが、より愛を深めてしまうのだ。


 人は、何かを選択しながら生きている。何も選ばないという選択肢はあるのかもしれないが、何も選ぼうとしないというのは有り得ない。男と女に関しては特にそんな甘い考えは通用しない。通用すると言うのなら、それは本当の愛ではない。

 しかし、富岡は何も選ばないということでもなく、選ぶことから逃げていた。全てにおいてどっちつかずで、周りを振り回す。その曖昧な気持ちで、ゆき子の、そして自分自身の人生を、棒に振ってしまった。
 ゆき子の強気というか少しヒステリックな態度により、「こんな女に同情なんかできない」「こういう運命になってしまったのも仕方がないし、いい気味だ」と、思った読者もいるだろう。しかし、これはゆき子の表現力の問題で、自分の素直さを隠して、こんなにひねくれた態度を取ってしまっていた。それをぜひ気付いてあげて欲しい。いや、これがむしろ、一番素直で直球の、富岡に対する愛の表現だったのかもしれない。
 そう、ゆき子はただ純粋に、富岡のことが好きだっただけだ。ただただ、愛していただけなのだ。


 何かを選ぶということは、何かを選ばないということ。
 選択をするというのは、とても勇気とパワーが必要で、時に苦しい選択をしなくてはならない時もある。しかし、それを乗り越えて選ぶことが出来た時、初めて見える何かがある。自分の中に占めていた思いが一つなくなるだけで、また新しい何かが吹き込んでくる。


 私は今までそれに気が付けず、ゆき子と同じように苦しんだ。しかし、この男と女の本質が生々と表現された作品を読んだことで、自分を客観的に見ることができ、気付くことができた。私も選択することができた。

 人は欲望のかたまりである。でも、ただ欲望のままに生きるのではなく、時には客観的になり、自分の欲望を見極める必要がある。そう気付かせてくれたこの作品に、私は心から感謝をする。

 男のことが分からない、女のことが分からないと悩んでいる人がいるのなら、何も言わずこの作品を読んで欲しい。