林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(1)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(1)


富岡さん、私はここにいます。

吉井菜子

 私はいま、とてもせいせいとした気持ちでいる。それは富岡兼吾が三人の女に先立たれ、自らを悲劇の主人公と錯覚して浸っているのをよろこんでいるわけではない。そもそも、富岡は不幸なのだろうか。それでは私のこのせいせいとした気持ちはなんなのだろうか。
 富岡はまさに「浮雲」のように、行く先々で惹かれた女と、また自分に惚れた女と愛を育む。私はそんな富岡を至極真っ当な精神をもった人間だと思う。もちろん、それは第三者の立場であるからこそ言えることであって、万一に私の友人が富岡のような男に惚れてしまった場合には必死でやめるように説得することと思う。しかし、恋は盲目であって、好いてしまえば理性なんてものはあってないようなものだ。そう考えると、富岡を責める気にはなれない。惚れたはれたでその場の気持ちを素直に行動に移せるだけたいへん結構な話ではないか。ベトナムに行ったら女がいて、どうやら俺に惚れてるらしいぞ、同僚はこいつに惚れてやがるが俺がもらってやるぜはっはっは。日本に帰れば愛しい妻が待っていてくれた、ああやっぱり俺が愛しているのは妻だ、いや、まてよ、ベトナムの女が俺を追ってきれくれたぞやっぱりこいつもなかなかイイ女じゃないか。いやいや伊香保に行けば若くて綺麗な女がこれまた俺に気があるのか、よしよし、いいじゃないか。とどこまでも自分の欲望のままに動き、さらにそれぞれの女にいい顔をしようとする。しかし女はたしかに馬鹿だがそう都合の良いようには出来ていない。あれこれと詮索はしてしまうし自分だけを見てくれない富岡を想うとさめざめと泣いてしまうし、時にはヒステリックに叫んでしまう。しかしここが男の腕の見せ所である。いくら浮気をしようともばれなければいい話なのだ。もしばれたとしてもなんとか女を丸め込むのが男っていうものである。富岡の場合はそれが少しへたくそだっただけなのだ。いや、三人とも富岡のことを愛したまま死んでゆくのであるから、ある意味成功とも言えるのだろうか。
昨今男性の受け身の恋愛体制を「草食系男子」などと言ってもてはやされるやら嘆かれるやらでなにかと話題だが、世の男性は少しくらい富岡を見習ってみればいいのだ。だが見習いたくても見習えないのが「草食系男子」であり、その気持ちはよくわかる。原因としてはその後のデメリットを考えてしまうからだ。失敗は怖いし人に嫌われるのも厄介ごとに巻き込まれるのも嫌だ。それでも好きな女と寝たいし愛に溺れたい。そんな今私のテーマ曲は中島みゆきの『狼になりたい』だ。その後のことは考えずにそのとき好きな女と存分に愛に溺れる富岡のなんと男らしくたくましいことか。
 浮雲のように生きる富岡が独りになってしまったところで物語は終わる。しかし、富岡はやはりその後も恋をするのだと思う。愛し合ってきた三人の女の面影をずるずると引きずりながら。屋久島にも東京にもどこにも行けないとかなんとか言いながらも、また新しい女と出会えばふらふらとその場の流れで、今度はヨーロッパにでも行ってしまうかもしれない。私を富岡に対してこれほどまでに嫌味をたれながらもどうしても嫌いになれないのは、富岡が愛した女たちをいつまでも引きずるその女々しい点にある。しかし恋愛に関しては「男は名前をつけて保存、女は上書き保存」などとよく言うので、女々しいということばは不相応だ。とにかく富岡のそのぐずぐずとした甘ったれた態度が私にはじれったく、いじらしく感じるらしい。どうやら私は富岡を嫌いになれないどころか好きになってしまったようだ。はじめに書いた私の「せいせいした気持ち」はもしかすると、富岡の愛した三人の女たちが皆いなくなったので、さあ次は私の番よ、という喜びからくる新たな出発へのすがすがしさだったのかもしれない。ようやく富岡を取り巻く女がいなくなった!ああ、せいせいした! いやはや恋というものは恐ろしい。やはり女は馬鹿だ。富岡さん、私はここにいます。