赤塚不二夫の対談集『これでいいのだ』を読む


赤塚不二夫の対談集『これでいいのだ』を読む

清水正

赤塚不二夫の対談集『これでいいのだ』は後世に残る名著だ。べつに後世なんぞに残らなくてもいっこうにかまわないが、とにかく面白い。赤塚不二夫は愛のひと、いや、赤塚不二夫の場合はひらがなの〈あい〉がいちばん似合う。最初にタモリとの対談、次に柳美里との対談。タモリとの関係は、いっそのことホモになってしまおうかと思ったほどの関係だから、言葉にする必要のないあいに満ちている。柳は小説家で、人間の関係に関しては一言いいたいということで、自分の考えを口にしまうのだが、なにしろん相手は柳を先生と呼ぶほどのだいセンセイで、このセンセイを前にすると、なんとか論などすべてことごとくヘリクツみたいになってしまうのだ。センセイは柳をうるさい女だね、なんて、男が思う素直な気持ちをサラッと口にするが、これが責めにも皮肉にもならないのは、つまりセンセイのあいのなせるわざということになる。センセイにとってはうるさい女も、かわいい女なのである。
 三番目の相手が、立川談志赤塚不二夫センセイは談志の弟子で赤塚不二身という名前をもらっている。読めば、格の違いは明白で、談志の笑いの分析はどんなに明晰であっても、センセイの前ではやはりコリクツになってしまう。談志のしゃべりに対して、ほとんど眠っているかのごとき対応が自然で、この自然の大きさ、おおらかさに思わずほほえんでしまう。 赤塚不二夫の娘が、父親を水槽で飼っていたい、というのをテレビで聞いたとき、その頃、まだ涙目にはなっていなかったのだが、不覚にも涙がでてとまらなかった。この父親にしてこの娘あり、赤塚不二夫のあいは深い。深すぎるあいがギャグとなりナンセンス漫画となってほとばしる。センセイご本人は、ナンセンス漫画は笑って受け入れればいいので、理屈はいらないと言うだろうが、少し言わせてもらえば、赤塚漫画の神髄はあいである。無意味の空洞にあいがいっぱいつまっている。この空洞に飛び込むということは、ようするにあいにまじわるということなのである。
 さて、談志師匠であるが、わたしは古今亭志ん生の息子、古今亭志ん朝と同じ考えで、彼を落語家として評価したことはない。落語家としてはリクツが多すぎる。落語家は噺をきかしてくれればそれでいいのであって、寄席で落語論をぶつことはない。談志は落語家というより、落語を愛する落語批評家とみたほうがいい。談志ほど落語論を通して人間存在に鋭く切り込んだを者はいないかもしれない。落語家・立川談志を高く評価する者もあるときくが、わたしは何度、談志の落語をきこうとしても途中できけなくなる。古今亭志ん生の落語を聞いた後では、古今亭志ん朝の落語でさえ、ちょっとな、と思ってしまう者にとって、談志の落語は彼の自意識がうるさすぎる。
 赤塚不二夫はこの談志師匠の弟子にまでなったのだから、まさにギャグの天才、彼のあいは談志のリクツ、その明晰な落語論にい眠りで応えるほどおおらかでふかくひろい。赤塚不二夫のあいはもはやぼけともみわけがつかない。
 漢字の愛には、観念がたっぷり含まれていて、これはへたをすれば口先だけの、頭でっかち・口説きびとの所有する武器のようなもので、その実体を知っているセンスびとにとっては屁のような代物である。いや、屁なら鼻孔を刺激するが、セルロイド製のおもちやでしかない愛の刀など振り回されてもめいわくなだけである。赤塚不二夫のあいには、愛という観念はなく、アイという冷たさ・ニヒリズムもない。談志はこのあいに包まれて、すっかりくつろいでいる。談志の明晰は、いつも相手に理解されていないという自意識のいらだちにふるえているが、赤塚不二夫が相手の場合は、相手が自意識の鏡の作用を超えているので、ほんとにリラックスして自分の明晰な論理展開に充足している。明晰な論理をリクツの小石のように、かぎりなく受け入れているおおいなる池、沼、湖のような存在が赤塚不二夫であった。投げてくる玉を打つ姿勢があらかじめない、こんなバッターを前にして、頭脳明晰、相手の気持ちを先取りせずには一言も発語できないような自意識過剰な談志は、相手を鏡像に見立てて、自説を披露しつづけるほかはなかったということだ。赤塚不二夫を相手に〈内なる対話〉をしつづける立川談志の孤独は、しかし狂気を内に抱えて自ら押さえ込んでいるだけにいたましい印象は拭いがたい。