ユッキーの紙ごはん(連載55)

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ユッキーの紙ごはん(連載55)


【ロマンチックを失った七夕】



ユッキー


 

 7月7日は、言うまでもなく七夕である。

 一週間ほど前から、最寄り駅の改札前に、七夕の笹が2本飾ってある。その笹には、どこから集めたのか大量の短冊がかかっている。笹の色よりも、短冊のピンクや青や黄緑などの色々のほうが目につくくらいだ。
「お金持ちになれますように」 だとか 「全国大会に行けますように」 だとか、カップルであろう名前を連ねて 「ずっと一緒にいられますように」 だとか、短冊の色以上にさまざまな願いがこれまたさまざまな字で書かれている。

 七夕というと真っ先に出てくる私の思い出は、小中学校の給食に出た 「七夕ゼリー」 なるもの。
 ちょっと凍っているゼリーの上に星を模ったゼリーが乗せてあった。1年に1度しか出ないというレアな感覚と、蒸し暑い時期にありがたい冷たいシャリシャリとした食感とで、それはもう美味しかった。もう一度食べたいが、この「とてつもなく美味しかった」という思い出が薄れそうな気もして、食べる機会が訪れないことを祈るばかりである。

 そしてもう一つ、小学校のときの苦い思い出がある。

 父方の祖父母は現在、叔母の家族と一緒に二世帯住宅で暮らしているが、小学生の頃は私の家から5分ほどの距離にあるアパートに住んでいた。お互いに行き来することもしょっちゅうあった。
 ある日祖母が入院したが、ほんの短い間で帰ってきた。母が 「おばあちゃんが退院したからお家に行ってお土産を渡してきて」 と言うので、入院・退院という言葉の重みなどちっとも想像しないまま祖父母のアパートへ向かった。

 今現在、そのアパートは取り壊されてもうない。陽の光が入らずに昼間でも薄暗い、嫌な雰囲気のアパートだった。
 その薄暗い部屋の中、座ってお菓子を食べていると、祖母は唐突に私を抱きしめて泣いた。
 私は初めて触れる 「大人」 の涙に狼狽し、どうして祖母が泣くのかもどうすべきなのかもわからず、気まずい空気がただ息苦しかった。

 今思えば、入院となればそれなりに大きな疾患があり、老齢ともなれば感じることも多々あって、可愛がっている孫が無邪気に傍にいれば何か感極まるものでもあったのだろうと予想できる。

 しかし察しの悪い子供であった私には予想の一つも浮かばなかった。
 そして当時通っていた学童保育で短冊に願い事を書きましょうという時間が取られ、「おばあちゃんがもう泣きませんように」 と書いた。

 すると、他の小学生たちは私の願い事を見て笑った。ショックのあまり、笑う彼らの言葉が聞き取れなかったので、大人になった今でも察しの悪い私はどうして笑われたのかいまだに見当がつかない。
 それどころか察しが悪い上に図々しくなったので、「なによ健気な願い事で可愛いでしょ」 とまで思っている。

 ……と言いたいところなのだけど、健気な願い事ではなかったのを自分がいちばん知っている。

 一見、優しい孫の願い事。しかし祖母の悲しみを労わるより、自らが息苦しいのを厭う気持ちのほうが大きかった。それを誰より、私の願い事を笑った子供たちより、私が知っていた。

 どうして祖母がもう泣かないようにではなく、悲しみに呑みこまれないようにと祈れなかったのだろう。
 身勝手だった自分を思い出し、毎年どこかしらで揺らめく笹を見るたび、胸が少し痛む。

※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。