ユッキーの紙ごはん(連載48)
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【ちなみにコロッケは3個以上食べられる】
ユッキー
たとえば16歳の女の子に彼氏がいて、交際期間3ヶ月ほどで 「彼のことを愛してる。彼ほどの人なんていない。絶対に結婚する」 と言っていたとして、何人がその言葉を心から信じるだろう。
口では 「素敵な恋人がいるんだね!」 と応援しつつ、心の中では 「愛してるって言いたいだけだろ」 「恋に恋してるだけ」 と半笑いでいるのではないだろうか。
16歳で付き合った彼氏と結婚する可能性のほうが恐らく統計的に低く、人生の中で見たらその気持ちは 「本当の愛」 ではないかもしれない。
だけど16歳の心はあくまで 「16歳のキャパシティ」 でしかなく、そのキャパシティをあふれるほどの恋心だとしたら、それはもう 「本当の愛」 だ。16歳にとっては。「愛してると言いたいだけ」 でも 「恋に恋してるだけ」 でもない。
「x歳のキャパシティ」 は常に存在し、未来を先取りすることはできない。x+20歳の他人が 「その気持ちは今だけだ」 といくら諭しても、本人も理屈や想像の部分ではわかっていたとしても、実感としてはいつだって生きてきたx年以上のものなど得られない。
16歳の頃の私は、高校の教室で友達と 「結婚してもしなくてもどっちでもいい」 と語り合っていた。子供は欲しいけど結婚はどっちでもいいと。ところが、22歳になった現在、その友達と飲みに行ったところみんな口を揃えて 「結婚したい」 と言う。
ずっと結婚に対してドライで、誠実な彼氏に隠して何度も他の男性と遊んでいた友達でさえ、「最近、目が覚めた。結婚したい。結婚するなら今の彼氏以上の人なんていないと思う。だからもう他の男と遊んだりしない」 と顔つきを変えていた。
「急に愛に目覚めるなんてどうしたの? 何かきっかけでもあったの」 と好奇心から尋ねると、友達はちょっと考えたあと、「やっぱり、年齢かなあ」 と言う。
「年齢?」 驚いて、うろたえつつ 「どうしたの」 と同じ質問をもう一度した。友達は 「年とったなあと思って」 と、愛に目覚めたにしては憂いを帯びた表情で微笑んだ。
「油物を食べられなくなったの。コロッケを一つ食べきれなくて残しちゃったんだよ。もう年だよ。ずっと一人なんて、無理だよ。寂しいよ」
22歳の女性が 「もう年だ」 と自虐することに対して、もっと年上の女性たちは 「何がもう年よ! まだ22歳でしょう」 と怒るだろうけれど、そこもやはり 「x歳のキャパシティ」 なのである。決して上辺だけの自虐ではない。
22歳のキャパシティでは、コロッケ一つ食べきれなくなったことが、今後の人生を心配し異性関係を改めるほどの決定的な瞬間だったのだろう。
16歳にして恋人のことを愛していると言い切る人を、22歳にしてもう年だと落ち込んでいる人を、彼らより年上の人々は 「若いなあ」 と嘲る。私にもそういう場面はある。
年をとるごとに、年齢のキャパシティは広がっていく。もしかしたら許せるものが増え、穏やかになっていくのかもしれない。
しかしそれ以上に現実を知り、自分にはどうしようもない問題が理不尽に襲ってくるものだと理解し、仕方のないことが増えていく。
自分より低い年齢の人のキャパシティを 「若いなあ」 と横目で見るとき、自分の広がったキャパシティを成長として受け入れて誇る気持ちより、伸びきったゴムを見るような気持ちが上回ると、22歳の私は 「年をとった」 と悲しくなる。
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