大谷 明子/体験と批評について


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は大谷 明子さんの批評を紹介する。





 
体験と批評について

 大谷 明子


○体験と批評
作文ではなく、感想文でもなく、批評をしなさい。
そう言われると、背筋をぴしっと正してしまう。気合いが入っているわけではない。何だか緊張してしまうのだ。批評という言葉には、作文や感想文という言葉にはない、緊張感がある気がしてならない。前者二つを書く場合は自由な発想で書くことが許されているが、後者にはその自由が奪われてしまう印象を持っていたためだ。批評の場合、繊細に細やかに、言語の論理を気にしなくてはならない。しかしそこばかりに気を取られてしまって、重要な点を見過ごしてしまうような気がした。
 小説やエッセイを読んでいる時、ただ文章の文字を追っているだけであろうか。文章をたどることで、自然と自己の経験や感覚と照らし合わせているように思えてならない。そうでなければ、小説に出て来た食べ物を「美味しそう」だと感じたりはしない。食べたことのないものでも、「美味しそう」という感覚を日常の中で体験しているために、文字という記号の集合体である文章を読んでも、「美味しそう」という感覚を得ることが出来る。人は小説を読むとき、日常の体験の中で得た感覚を使って読んでいるのである。
 この体験や感覚を小説やエッセイなどの作品を読んでいる際に使っているのだが、これらが批評になると削ぎ落とされてしまっているような感覚に陥る。言語の論理ばかり気にして、小説を読んでいる時に感じた感覚や体験がすっぽり抜け落ちやすくなっているのではなかろうか。テキストに基づいでも、先攻の研究を踏襲しても、まず始めにあるのは自分の読書の体験なのである。
 清水先生と中村先生の対談の中で、中村先生が清水先生のネジ式螺旋批評を下記のような三段階に言い表している。
「第一段階は若き日の批評にみられるドストエフスキー文学の主人公との一体感を掘り起こす、ドストエフスキー体験批評。第二段階は、作品の構造の分析に入っていく。バフチンの影響も入ると思うけど、いわゆる主観だけで鑑定するんじゃなくて、世界の文献を読みあさって作品の構造をしっかり分析していく。そして第三段階目。おのれの神秘体験とドストエフスキーの神秘体験の共通の普遍的な核をあぶり出すには、体験・作品の暗号的な構造分析を踏まえた上で、ドストの小説全部を写経しなきゃいけないと。つまり写経ということは、般若心経でもそうだけど、全部写さなきゃいけないわけだから、それだと清水正の批評はドストエフスキー全部写しちゃえばいいことになっちゃう」
体験を書いた上で、構造の批評を行い、三段階目で先の二段階をふまえた上で、さらにまた読み込んで行く。この方法に自己の体験も客観的な作品への分析を踏まえた、さらに作品の空間に深く切り込むような印象を受けた。つまりまず始めに作品への体験がある。
 体験や自分の考えたことばかりを書くと、それは批評ではなく作文だ。だからと言って、先攻研究もしっかり踏まえ、その上に自分の論を展開した批評も、ただ作品の文章や執筆した批評の文の中での言葉の論理ばかり気にしていては、誰でも書く事の出来るような、なんだか味気ないのではなかろうか。どちらも批評において重要だ。作品を読んで得た体験を忘れてはいけないという気持ちが、批評することにおいて自分の分析する立ち位置を決めるのではなかろうか。


○体験の祖である母
 「ドストエフスキー in 21世紀」において、私が一番印象に残ったのは、清水先生と中村先生が母性について話している部分である。オイディプスの話と『カラマーゾフの兄弟』の話から「女」と「母性」の話になり、二人の母性の違いについての話になった。この対談は中村先生を聞き手に、ドストエフスキーを研究している批評家の清水先生とドストエフスキーについて話しているため、聞き手である中村先生の話は清水先生と比べると少ないように感じる。しかし、「女」と「母性」の話は、両先生の大きな違いが垣間見えるのである。

・清水先生
「巨大な何もかも包み込む母性」
「僕は母親に対してね、包み込むのが母性だっていうんでしょう。だけど包み込んでいく、果てしなく包み込んでいく母、女性でもあるわけですから、その女性の悲しみというものを男は、本当に薄いね、ベール一枚で包み込むものがないとだめなんだよというのもあるんですね、同時にね」
・中村先生
「男が母性を感じる瞬間というのはね、まさに母が少女であるという瞬間と立ち会った時なんだよ」
「子宮が母性の秘密」
(母が喜んで子のために自らの命も差し出すというような大野一雄の女性観母性観と異なることを述べ)「母のその喜びを支えているのが胎児・子どもなんだよ。子どもが母親を養っている」

 中村先生曰く、清水先生は「自分の文学の師はドストじゃなくて母である」と話している。清水先生が感じる母性は「包み込む母」であり、この母はどんなものでも包み込むかのような包容力を持つ。中村先生の感じる母性は、「か弱い少女の母」であり、このか弱い姿の少女でもある「〈母を思う〉」ことが、中村先生が自殺せず文学をやり続けるためのエネルギーになっていると話す。しかし同時に「母のために書いているって言ったら嘘」とも話している。

 赤子が大人のまねをして話そうとしたりなど、子供の学習方法はまねっこから始まる。あらゆることを体験して自分の中に取り入れようとしているのである。つまり、私たちは体験というものを身近な大人から学ぶのである。清水先生と中村先生が身近に感じた大人というものが、自分を生んだ母なのであろう。両先生にとって体験の祖こそ母なのではなかろうか。
 清水先生と中村先生の母性論の大きな違いは〔女性である包み込む母〕か〔子が支えるか弱い少女である母〕かという点だ。そのために、清水先生はその母である女性を「男は、本当に薄いね、ベール一枚で包み込むものがないとだめ」と話し、中村先生は「〈母を思う〉」と話した。その立ち位置が、オイディプスの話と『カラマーゾフの兄弟』の話の際に起きた、意見の違いの原因である。
 私は中村先生と清水先生の母親に知らないため、どのような影響を受けているのかまで述べることは出来ない。さらに私は母親ではない。自分の母から受けた母性のかけらを持ってはいるが、男性と女性では「母」という言葉の意味は大きく異なるので、母性自体についても書くことが出来ない。しかし小説などの作品を読んでいる際や「母性」や「女性」を考える上で、自分の受けた「母性」や見てきた母の姿、つまり自己の感覚や体験によって最初に作品に降り立つ批評の立ち位置が大きく異なることは理解が出来る。


○終わりに――感性と行動
エジソンの言葉に「天才とは1%のひらめきと99%の努力」という言葉がある。家でぼーっとテレビを見ている時に、何かのテレビ番組でこの言葉の間違った解釈について取り上げられていたのを見た。この言葉の一般的な解釈は、九九パーセントの努力の方を重視した努力の大事さを説くものだ。しかしこの言葉の本当の意味は一パーセントのひらめきを重視するもので、一パーセントのひらめきがなければ九九パーセントの努力は無駄だというものだった。対談を読んでいて、ふと、このことを思い出した。人生で得た体験と感性は、何か作品を読んでいる際に必ず、指標として用いている。そうでなければ作品に感情移入は出来ない。しかし批評において、感情移入しすぎて客観的な視点を忘れてはいけない。だけれども、この客観的な指標によりすぎてもいけない。この体験とのバランスを、作品を解釈していく上でとるのが、きっと難しいのであろう。これが批評家の感性であり、一パーセントなのだと思う。この一パーセントの研ぎすまされた感性を、出来るだけ磨くのが批評家なのかもしれない。そのためには沢山読み、沢山書くことをしていかなければならない。
 読むことと書くことについて、あらためて考えさせられた対談でした。