ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は清水孝純氏の批評を紹介する。




清水正・中村文昭<ネジ式螺旋対談>によせて
──清水正氏の方法の根幹を問う

 清水孝純


                                 
対話の面白み

対談の批評というものはいったいどういうものなのか。これまで対談を批評の対象にしたことがないので、ちょっと戸惑っているというのが正直のところだ。そこで改めて対談というものは一体何かと考えた。対談といってもいろいろある。それを同じまな板にのせて論ずるわけにも行かないが、とにかく、一般的に共通する特徴をあげてみれば、まず対談者はいわば素手で対話に参加するのであって、学会発表のように資料などを用意することもない。ということは、対談の相手たる聞き手というか導き手によって、自分に血肉化したものを、結局は引き出されてゆくということなのだろう。従って、それは付け焼刃ではない、永年積み重ねてきた知識が、それまでの様々な体験によって、濾され、純化されたものとして発言されたものということになる。もっとも対談の導き手がメモぐらい持つこともあるかもしれないが、応えるほうは基本的には、それにいわば素手で対応しなければならない。導き手はまた彼自身の関心に添って、問題を投げかけてゆく上で、一般の聴衆の代弁者として、聴衆の関心の焦点とでもいうべきものに鋭敏なアンテナを張っている必要があるだろう。まあそんなところに対談というものの特徴がある。勿論そこには即興性もあり、結局対談の面白さとは、ざっくばらんな形で、対談者の考えを聞き、またそのようなことの合間にぽろっと本音がもれたりする、あるいは著作などでは味わえない著者の素顔に接したりする。
さて今回取り上げることになったのは清水正氏と中村文昭氏との対談だが、<ネジ式>螺旋対談と言う題になっている。なかなか面白い題だ。螺旋階段のようにぐるぐる廻りながら、深部に、あるいはより高いところに上昇する、自在な対談を予想させる。まさしくその予想通りの進行で面白かった。おかげで僕の知らなかったことをいろいろ教えていただいた事はありがたい。
例えば、ポルフィーリの鼻の原語はкурносыйで獅子鼻のほかに死神という意味があるとか、清水正氏の恐るべきドストエフスキーによせる執念の根源力が何処から発しているかとか、なかなか単行本では聞けない肉声が聞けたかと思う。しかし、だからといってドストエフスキーの世界にのめりこんでしまうという一方的な打ち込みではなく、それに対して厳として氏のアイデンティティを堅持しているとか、ドストエフスキーとの運命的とも言っていいだろう出会いの特質がそこで浮かび上がってくるのも興味深い。このおそらくドストエフスキーにのめりこみつつも、そこから画然として立ち返るこの往復運動に氏の面目があるのだろう。

再構築という方法

今回初めて氏の方法が再構築にあるということを知った。氏の方法がどうやら脱構築(Deconstruction)にあるというのはこれまで想像してきたことだ。ところで文学研究、あるいは文学批評において、再構築(Reconstruction)というのもあったのだろうか。それともこれもまた、氏独特の方法なのだろうか。とにかく、再構築といわれて始めて、氏独自の読みの根本がわかったように思う。それは対談のなかで示されていることだが、たとえば『悪霊』論のなかで氏の解釈は従来の解釈を逆転し、スタヴローギンはつまらない男、ピョートルこそもっとも興味深い人物で、スパイで、スタヴローギンの自殺もかれの工作による。かれは革命の芽を摘むために官憲と結託したスパイだというものだ。そしてピョートルこそキリストというのだ。こういった解釈にはまったくおそれいるしかないのだが、どうやらそれが単に恣意的というのではなく、それなりの理論と方法によっているということに改めて、この対談を通じて知った。大体対談などというものは気楽に読むものであって熟読するものではないから、以前読んだときにはそれほど注意して読むことはなかったのだ。今回改めて読み直してみて、恣意的と思われたところに、一貫した氏の構想の横たわっていることに気付いた。この対談批評はその点をめぐってのものになるだろう。
氏の論にかかると従来の読みがことごとくといっていいほど逆転させられる。特にそれが目立つのは『悪霊』論においてのようだ。語り手アントンはスパイ、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーは二重スパイ、ひょっとしたらピョートルは父親ステパンとポーランドの愛人の間の子供の可能性もある、この父親はエセ・インテリゲンチヤだ。それにホモ。セクシュアルだが、ヘテロセクシュアルでもある。スタヴローギンは太母ワルワーラによって駄目にされた男であり、つまらない男であり、『悪霊』の文学空間では顔をだすべきではなかった、いわば闇の中に置かれるべき存在だった。彼の遺書はピョートルの書いたもので、筆跡鑑定すべきだった。なんともこの自由自在な発想には驚くほかはないのだが、これが対談者中村文昭氏によっても指摘された氏の方法、再構築というものなのだろう。
いうなれば、単に従来の読みを解体するだけではなく、それを再構成しようというものらしい。このように従来の読み、いわば慣習化し、結果として形骸化し、なんら感動をもたらさなくなったような通り一遍の読みに対して、たとえば焦点的人物をずらし、あまり関心をひいて来なかった人物に光をあてることで、新鮮に、それまで見えなかったものが見えてくることで新しくなる読みによって作品がいきいきとよみがえってくることがあるだろう。それが脱構築だとすると、清水氏の読みはその先を行くものらしい。ピョートルが革命の芽を摘むためのスパイとすると、ピョートルは反革命の戦士ということになり、むしろ皇帝擁護、ロシア正教擁護の戦士として、悪霊どころではなくなる。否定は一挙に肯定へと逆転する。悪は一挙に善に転換される。この善なるものとして読み替えること、これが再構築と言うものらしい。確かに構築というものはそれ自身、ポジティヴな意味でなくてはならないだろう。これはドストエフスキーに対する抗議であり、その世界のもつ残酷さ、否定性にたいする拒否といえるものではないだろうか。この対談が載っている号で筆者は氏の『悪霊』論を批判して、氏の論においてはニヒリズムという言葉がほとんど使われていないと指摘したが、今になってわかった。氏にはなにかしらニヒリズムを拒否するところがあるのではないだろうか。僕は『悪霊』ははっきりニヒリズムとの対決の書であり、ピョートルこそ悪霊自体であり、そこに作者は例の荒野の悪魔をかたどったと見る。
スパイとして見るということは、いわば人間的次元で彼を捉えていることになるだろう。スパイの戦術は仮面による裏切りであり、密告であるだろう。かれはいわば二つの顔をもつ。裏切る仲間にはいかにも同志らしい顔を演技し、雇われた官憲には仲間の情報を売る。彼が才能を見せるとしたら、いかに同志らしく演ずるかというその演技においてだろう。その点では人間的な面をもつ。仲間を売るときの顔は又違う。狡猾で、陰険で、残酷な表情をとるだろう。しかしそれとても人間的であることに変りはない。しかし悪魔は違う。たとえばイヤゴーだ。かれはまさに悪霊といってもいい存在だ。かれもなるほど二つの顔を持つ。しかしひとつは人間の顔だがもうひとつは暗黒の闇、虚無のやみにむけた顔、闇に向かって快哉を叫ぶ顔だ。スパイは裏切りと言う行為によって、仲間を破壊せしめるが、それは官憲と言う外部の力によってだ。そしてその破壊にしても、せいぜい肉体の破壊だ。よしんば魂を破壊するにしても、それは肉体の破壊という恐喝のもとに起こることになるだろう。そして恐喝されたものは、真に自分の魂を裏切ったかどうかは別だろう。転向しつつ、腹の中では「それでも地球は動く」とつぶやいているに違いない。いずれにせよ、官憲は人間の魂を根本的に破壊することなぞは出来ない。アウシヴィッツはすぐれて人間破壊という意味では極北的な収容所だったが、それでも人間の魂を破壊することは出来なかった。しかし悪魔は違う。悪魔が狙うのは人間の魂そのものの破壊だ。しかも悪魔の破壊は、悪魔が手を下すのではなく、あたかも人間自らがその道をたどるかのように演出するのだ。悪魔はいわばその道への導き手なのだ。人間は破滅、自己破壊の道をあたかも彼自身が選んだごとく進む。悪魔の狡知が働くのはその点に関してだ。
その点で『オセロ』のイヤゴーは見事な例を見せている。イヤゴーがオセロという高貴にして、妻への愛にあふれた存在を破滅に陥れて行く過程は、オセロが彼自身の意思で自ら破滅を選び取ってゆくように見える。イヤゴーの狡知が、オセロの魂にたくみに働きかけて、オセロの心に嫉妬と憎しみを煮えたぎらせ、妻を殺害する一本道に突き進まざるをえないようにまでおしやる。オセロにもう少しでも事態を冷静に見る、あるいは妻の弁明に耳を傾ける余裕があったなら、賢明なオセロのことだから、イヤゴーの陥穽を見逃すはずはなかった。それを妨げたのが、ほかならず妻への熱烈な愛情だったのだ。イヤゴーの悪魔的狡知は、人間においてもっとも重要な核心的部分をいわば破滅への梃子として使う。これが悪魔の戦略であり、それによって、結局オセロがもっとも愛する妻を殺害し、さらには自分自身も破滅して行くのだ。
『悪霊』でこれを見てみれば、キリーロフの自殺がそうだ。悪霊はもっとも純潔な、誠実な魂を好餌とする。キリーロフはその観念に殉ずることにおいて、実に誠実だ。ピョートルが行なったのは、この純潔を利用して、シャートフ殺害の実行者として告白する遺書を書かせる。キリーロフの自殺は、いわばニヒリズムに対する殉教といってもいいものだが、ピョートルはこの美しい動機をシャートフ殺害と結びつける。シャートフもまた誠実極まりない人間なのだ。さらにピョートルはシャートフ殺害を五人組の結束に利用しようというわけだ。その結果において、ピョートルの影はどこにも残らない。これが悪魔の手口だ。ピョートルとスタヴローギンとの関係にしても、ピョートルは自分たちの太陽というようなことをいって、自分の陰謀に巻き込もうとする。さすが、スタヴローギンはその手には乗らない。しかし、大きなパースペクティヴから見ればスタヴローギンもまた自らの手で破滅の道を選んだわけで、悪魔の狡知は不思議にもそこに働いていたということになる。先に、ピョートルは悪霊自体と書いたが、勿論彼が虚無の霊そのものであるはずはない。悪霊によって完全に憑依されている人間というほどの意味だ。いまスタヴローギンのうえにも悪霊の狡知が働いていると書いたのはピョートルではない。ニヒリズムという悪霊だ。
ニヒリズムがなぜ甘美な声で人間をひきつけるか。そこに恐るべき自由を見出すからだろう。いわば倒錯した自由、それを神になりたいと表現する人もいるが、より直接的にはそこには恐るべき甘美の感情、生の衝動の流れを逆流することによる、生のエネルギーの最大限なる享受、甘美とはそういうことではないか。しかしこの甘美さとは悪霊がおのれの憑依した人間、それもすぐれて純潔で誠実な人間の破滅を用意する陥穽であることは今述べたところだ。『罪と罰』でラスコーリニコフが自分を美的虱と自嘲したのも同じだ。このときかれは自分に憑依した悪霊を直覚している。
しかし清水氏はどうもニヒリズムというのがきらいのようだ。ニヒリズム特有の悪魔的破壊を嫌悪しているようだ。そこで氏はラスコーリニコフを卑劣漢と呼び、真の主人公にスヴィドリガイロフを立てる。
これは対談にはでてこないことだが、『罪と罰』においてラスコーリニコフの比重を落とし、一方でスメルジャコフを高めるという読みもまた再構築なのだろうと思う。とにかく氏はラスコーリニコフがアリョーナを殺したことが我慢ならないらしい。アリョーナはペテルブルグで一生懸命生きていた人間であって殺されるべきなんらの理由もない。リザヴェータ殺しにいたっては、ラスコーリニコフはなんらの良心の痛みをかんじていないではないか。さらに終末でラスコーリニコフに救済が訪れたなどといっても、また元の木阿弥で、再生などありえない。このように否定的だが、スヴィドリガイロフに関しては、かれはひとびとにとっての奇跡、いわばキリストだとまでいうのだ。逆転の仕方はなにかしら『悪霊』の場合と似ているのだが、いずれにしても問題は逆転の手続きにあるのではないか。
ここで再構築という方法を考えて見ると、先にも述べたように、作中人物を肯定的な方向で捕らえようとするものだ。氏がラスコーリニコフを卑劣漢(подлец)とするのは、上に挙げたような理由から、さらにまたポルフィーリが彼のことをそう呼んだからだが、ポルフィーリが彼を卑劣漢とよんだにしても、ポルフィーリがラスコーリニコフを文字通り卑劣漢と見なしているはずはない。しかし氏の解釈ではそれがそのままにラスコーリニコフにあてはめられて行く。これは人物の類型化とでもいうべきものではないか。『罪と罰』ではスヴィドリガイロフが自殺直前通る場所の描写があって、その描写にかんする小林秀雄の批評文を批判しつつ、氏の視点からそれを読み直す。その情景描写を氏はドストエフスキーはスヴィドリガイロフにたいしてなんという残酷な扱いをしたかと作者を批判するのだが、その批判の仕方とも通底するだろう。

テクストを変える自由

どうやら氏の再構築の構想は、読者たるものは、作者を批判し、そのテクストさえも変える自由を持つと考えているようだ。氏の『悪霊』論のなかでこういう一節を見出した。
「わたしが作中人物の外的相貌に関心を持つのは、実はその外的相貌の魔力からの解放をもくろんでいるからである。もちろん、作者は創造者として、作中人物の外的相貌を決定し読者に提供する権利をもっている。またそのことによって読者が人物のイメージを形づくっていくことも確かである。だがわたくしたち読者はそのことを充分に踏まえた上で、人物の外的相貌を変容させる自由を持っている。」(『「悪霊」の世界』173) 
ここで思い出すのは対談のなかでの氏の発言「清水正の世界の中にドストエフスキーがあり、宮沢賢治があるのであって、僕がドストエフスキー宮沢賢治の世界の中に入り込んでいっているんじゃないんですよね」(「対談」33)というところだ。ここでは氏の自負が、氏を作者に対応する地点にまで押し上げている。そこで作者のつくりあげたものの改変をも求めるということになるのだ。一体そのような権利は何処から生まれるのだろうか。
一般的に芸術作品の理解に法則はないだろう。特に文学の場合、そのような解釈も許されるところがあるというのも事実だが、しかし作品の基本的構造にかかわる場合はどうなのだろうか。昔パリでタルコフスキーの演出にかかる『ハムレット』を見たことがある。舞台の中央に大きな幕がはってあるだけのものだったが、やはり『ハムレット』だった。そのとき、これは『ハムレット』という作品の構造がしっかりしているから出来ることと思った。そう考えた場合、氏の再構築なるものによって、『悪霊』という小説の構造に大きな変化が来はしないだろうか。氏自身その主題を「国家から派遣されたアントン・ゲイによるスクヴォレーシニキにおける革命運動顛末記」(113)といっている。とすれば明らかに小説の内容に変化がきたしている。としたら、僕が問題とするようなニヒリズムの問題は遥か後方に退き、一種のスパイ小説になるということになるのだろうか。そうした場合この小説をドストエフスキーの小説連鎖のなかでどのように位置づけるのか。その点を明らかにすべではないか。
そのような再構築によって氏は一体何を言いたいのか、それによってドストエフスキーの世界を批判し、それを超克すべき世界の提示を試みるのであれば、氏はセルバンテスが『ドンキホーテ』でなしたように、作品をもって対応すべきではなかったかというようにもおもう。セルバンテスの場合はパロディという形をとったが、たとえば志賀直哉の「クローディアスの日記」のように、あるいは武田泰淳の「わが子キリスト」のように人物の逆転によって、悪役のリハビリテイションを描くこともあるだろう。

共時的解釈の問題点

ところでここで指摘しておきたいことは、氏の解釈全般を通じて、極めて共時性が強いということだ。それはどこまでも現代的観点に立ち、現代の時代的要求の上に立って、ドストエフスキー脱構築し、さらに再構築しようという氏の発想によってなのだろうが、それにしても時代的要求といっても所詮われわれが立っている立場は日本という立場であり、そして日本語、日本文化という立場だろう。共時性といっても現代の日本人という立場から捉えた共時的なものということになる。その点で言うならば氏の人物把握がいかにも普遍的な形をとっていて、ほとんどロシア人ということを意識しない人間一般によってのものというように思われる。ところでロシア人の場合観念、思想の憑依の強烈さは我々の想像を超えたものがある。それは『死の家の記録』にも伺われることだが、ロシア人は一人一人が、門番のおばさんたちにいたるまで、どうかすると梃子でも動かない個性の頑固さを有していることは筆者の一年ちかいロシア滞在で体験したことだ。以前ヴェーラ・フィグネルの『遥かなる革命 ロシア・ナロードニキの回想』を読んだことがあるが、ヴェーラという女性の信念の強固なることに圧倒された。
ロシア人には特有のマクシマリズムというのがある。極限まで行かなければ、納得しない。昔エルミタージュで見たかと思う。祖国戦争の頃だったか、一人のロシアの兵隊が、フランス人にロシア人の勇気を示すためだけに、我とわが腕を切り落とすという絵だったか、版画だったかが展示されていた。勇気を示すためだけに、腕を斧できりおとす。率直に言って僕はおぞけをふるった。考えて見れば、『死の家の記録』に活写されていたのはそのような恐るべきロシア人だった。ある観念に囚われれば、一途にそこに突き進む。
西欧で発達したニヒリズム、或いは革命思想がロシアで現実的なものとして実行に移されたのもそのためだ。それは社会的状況にもよろうが、ロシア・インテリゲンチアはいわば観念を生きる。この観念の憑依がいかに強いものか。小林秀雄ラスコーリニコフの孤独を強調するが、ラスコーリニコフを孤独に追いやったものは観念の憑依だ。ドストエフスキーは生涯ニヒリズムと闘ったが、それは言い換えれば観念の憑依との闘いだったといいかえてもいい。日本においても、日本赤軍事件をみれば観念の憑依の恐ろしさは、理解されよう。そこに見られるリンチの凄まじさは、やはりイデオロギーの憑依の凄まじさだ。ラスコーリニコフが犯した殺人に対して、ラスコーリニコフを嫌悪するのは自由だが、それより矢張り作者がそこに与えた観念の憑依のもつ悪魔性というものの告発をこそ見るべきではないか。一方で老婆殺しの恐ろしい夢を見る。他方で御者が疲弊した馬を殴殺する、戦慄的な夢を見る。ラスコーリニコフに憑依した観念の強固さと、肉体の深部から衝き上げてくる彼自身本来の生地の叫びとの間にあって、それでもなお観念に身を投ずるのがラスコーリニコフだ。この引き裂かれた自我の間の距離たるや大変なものだ。『罪と罰』という膨大な文学空間はこの距離をいかにして埋めてゆくかにある。清水氏がラスコーリニコフを卑劣漢と呼ぶのは、スヴィドリガイロフが自殺したのに対して、ラスコーリニコフがおめおめと生きたかららしいが、それはこの巨大な距離をいかに埋めてゆくかに賭けたと言うことであって、それをどうして卑劣漢と呼べるのだろうか。これがラスコーリニコフのマクシマリズムというものであって、ここにやはりロシア人が顔を出してくる。この徹底性、観念を極限まで追い詰めてゆく、そこにロシア的なものがある。ベルジャーエフは書いている。
「何よりも注目すべきことは、ひとたびニヒリズムを身によろうたロシア人たちが、平然として自己を犠牲にし、懲役にも絞首台にも行ったことである。かれらは未来を作ろうと努力していたが、かれら自身のためには何ひとつ希望はもたなかった、この地上での生活はもとより、永遠の生というものも、かれらは否定していたのだから。かれらは十字架の秘蹟を理解しなかったが、しかも最高度の犠牲と自己放棄をなしえた。この点において同時代のキリスト者たちよりまさっていた。」(ベルジャーエフ、田中西二郎・新谷敬三郎訳『ロシア共産主義の歴史と意味』白水社、1980、p.66)
またベルジャーエフは、自分たちロシア人にとっても「ロシアは解きがたい神秘」だとして、ドストエフスキーについてこう述べている。
ドストエフスキーの貌(かお)はロシアそのものの貌(かお)と同じように、ダブル・イメージになっていて、きわめて矛盾撞着した感じをよびおこす。底なしの深遠と果てしない天上とが低劣下賎なあるもの、つまり稟性の欠除、奴隷根性と結びついている。人びとにたいする限りない愛、まことのキリスト的愛が人間憎悪と残忍性とに結びついている。キリスト(大審問官)における絶対的自由の渇望が奴隷の従順と共存している。ロシア自体がこのようなものではないのか」(前掲書p.258-259)
ベルジャーエフニヒリズムはロシア人にとって宗教になったといっているが、元来一切の権威否定だったはずのニヒリズムが宗教にまで祭り上げられる、この矛盾こそがロシア人なのだろうが、この奇怪な矛盾を身をもっていきる、いわば不条理をいきるのがロシア人だった。しかしロシア文学が十九世紀から二十世紀にかけて強烈なインパクトを西欧に与えたのもこのような特質によってだった。普遍性とは民族性をきわめたところに生まれてくる何かであって、最初から抽象的な普遍性などというものはない。さて氏の方法の、ものを共時的に捉えることにそのような点で問題はないのだろうか。あえて疑問を呈したい。

翻訳について

いま述べたのは、文化理解、文学理解においての問題点だが、氏もそのような点に注意を払わないことはない。たとえばそれが端的に現れているのが翻訳の問題であるといっていいだろう。対談の中でもたびたび螺旋式にそこに立ち戻ってこの問題に触れている。氏がもっとも重要視するのは一人称の問題だ。日本語ではいわば一人称の序列化ともいうべきものがあり、しかも通常は一人称が使用されないという不可思議な構造を持つ。ここには無限のニュアンスがあるといっていいだろう。氏はゾシマ長老が「わし」と訳され、ほかの人物は「僕」とか「俺」と訳されている。これをロシア語では一人称はЯひとつしかないわけだから、「私」に統一したらどうなるかというような問題提起だ。この問題は別段新しい問題ではないが、「私」に統一したらというところが氏らしい発言だろう。西欧語ではそう訳されているわけだから、日本語がかなり特別ということになる。それに西欧語では一人称が省略されることはない。ここにはひょっとしたら重要な文化的差異の問題が潜在しているかもしれない。それは単に翻訳の問題には止まらない、日本人の心性とかかわるものだろう。
問題をもう少し翻訳に即して考えようか。氏も原典に当たることの重要性を強調する。その一例としてあげたのがポルフィーリのжизньという言葉だ。これは『罪と罰』第六章二に出てくる言葉だが、ポルフィーリはラスコーリニコフに対してこの言葉を盛んに使っている。氏が指摘するのはその言葉の多義性、すなわち翻訳では生活と訳されているが、生命という意味もあるという点だ。たしかに日本の翻訳ではこの部分は生活と訳されている。「何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでおゆきなさい」(米川訳)。ところで原文はотдайтесь жизни прямоとなっている。Отдайтесьはотдатьсяの命令形だが、岩波の『岩波ロシア語辞典増訂版』によれば「没頭する、身を入れる」とある。しかし井桁氏の『コンサイス露和辞典』では「身を委ねる、没頭する」とある。『研究社露和辞典』もそうだ。とするとここでは生活よりも生命に身をゆだねるといったほうがしっくりする。コンテクストからいって、すぐあとに岸にもっていってくれるという言葉が来るから、生命の流れということをポルフィーリは念頭においていたのだろう。この言葉はその前後にくりかえされている。それから見てもポルフィーリがいったのは生命と捉えるべきかもしれない。ただ清水氏はそれを一歩進めて、キリストとする。そうは訳せないだろうが、ロシア語自体多義的だから、そのような意味も暗示されている可能性はじゅうぶんあるかもしれない。そのようなロシア語の多義的なのに対して、日本語の翻訳の問題点は、「кроткая」についても問題にされているが、この問題も重要な問題だろう。逆に日本語への翻訳において、多義的な言葉を一義的である日本語に翻訳する場合、より厳密な読みをしいられるということもあって、一概にマイナスだけではないのではないかという感想も湧いてくる。いかがなものだろうか。

スピノザニヒリズム

氏の脱構築、再構築は従来あまり顧みられなかった人物、あるいはディーテイルの読み直しに基づいていること、また共時性の上に立って自己を感情移入することでテクストのいわば隠された部分をひきだしてみせる点に、氏の所説の魅力もあるのだろうが、時としてそのような共時的な対比の意味がよくわからない場合がある。たとえば『悪霊』論のなかのスピノザを扱った部分。
中村氏はスピノザのところは面白いといっておられる。もう一歩進めてどういう点が面白かったかを話に出して欲しかった。『スピノザ往復書簡集』から氏の『悪霊』論に引用されたスピノザとオルデンブルクの手紙でのやりとりは面白いが、その説明が的確かどうかには問題があるように感ずる。疑問点をいくつかあげてみる。まず氏はスピノザの神を超越神と考えているようだが、そうではないのではないか。
スピノザは神を万物の超越的原因と見なし、それを理性によって証明できるという立場に立っている。(中略)スピノザの説く神は、キリスト教で説く神というより、やはり『あらゆる事象とあらゆる行動の運命的必然性』(書簡七十四)そのものとしての自然と言えるのではないかと思う。スピノザの神が運命的必然性としての自然であるなら、オルデンブルクの言うように「すべての律法、すべての徳、すべての宗教の中枢は断ち切られ、すべての報償と刑罰は意味がなくなる」のは当然である。」(『『悪霊』の世界』333)
これが氏による解説だが、ここには大きく言って二つの誤解がある。第一は、「スピノザは神を万物の超越的原因と見なし」という点、第二は「スピノザの神が運命的必然性としての自然である」という見解である。ここに一般的にスピノザ哲学に関する見解を紹介しておこう。
スピノザは、世界の秩序そのものを自己原因とみなす。ユダヤ教キリスト教イスラームが共通の根本前提として認める超越神を世界像から削除することを含む。人間精神は、自然の必然性に完全に服し自由意志をもたない、とみなされるのである。さらにスピノザは超越神と自由意志の不在を自覚する人間が抱きうる倫理説を提示する。すなわち、超越神と自由意志への信念に依拠しないまったく新しい生の哲学を指し示すのである。」(『哲学の歴史 デカルト革命(17世紀)』中央公論新社、2007・12、p.379)
スピノザ形而上学には「神即自然」というスローガンや「汎神論」というレッテルがしばしば付与される。これらの言葉によって曇らされてはならないのは、スピノザはロマンチックな直観のもとで漠とした自然全体を神と等値したわけではない、ということである。スピノザの神とは漠とした自然全体のことではなく、無限に多くの属性を貫通している唯一の実体ないし因果的連結のことなのである。」(同書p.426-427)
ここに提出されているのが現在の代表的なスピノザ観とすると、先に述べた氏の二つの見解、スピノザの神を超越神とすること、単純に神即自然とする見解は根本的な誤解といわざるを得ないだろう。だが一体なぜ『悪霊』論のなかで多大なページを使ってスピノザ論をやる必要があったのか。どうやらイッポリートの自然呪詛との関連で、スピノザの自然把握のなかにイッポリートの自然の残酷さを見ない不思議をそこから言いたいようだが、しかし往復書簡のなかでもいっているように、キリストの復活は精神的に信ずるもの、比喩だといっているスピノザが、死後のキリストの肉体を貫く自然法則の問題に興味を示すはずはないだろう。自由意志の否定の上に立つスピノザに通常のキリスト教的倫理を求めても意味はない。時に同時代の人々に無神論者と厳しく糾弾されたとしても、幾何学的方法によって理性のうえに強固に構築されたスピノザ哲学にニヒリズムなどない。というわけで、なぜこのような形でスピノザが問題になるか僕にはよくわからない。
このスピノザ論のように、あるいはそれに続くサド論のように、あまり顧みられなかった問題に焦点をあて、あたらしい読みを与えようという試みはそれなりに面白くはあるが何かしら焦点が絞られていないように思う。

再構築の収斂する先は・・・

結局対談批評といっても帰する所、氏の個々の論に提出された問題をとりあげることになってしまったが、それらは対談で触れられた問題の豊かさからすれば一部にすぎまい。さまざまな回想談、あるいは経験談によって氏のドストエフスキーによせる情熱の源が内側から語られるという点では大変興味深かった。意外にさりげない形で提出された問題点にヒントのようなものがあった。それらを考察していったらそれこそ膨大な紙面を必要としよう。ところで氏のドストエフスキー論が一体どういう方向でまとめられてゆくのか、氏の再構築の方向性というものは大体わかったような気がするが、どのようなドストエフスキー論にそれらが収斂してゆくのか、さらにそれが構築するものがどのようなドストエフスキー像であるかに期待しつつ筆をおくことにする。