小柳 安夫 「清水正VS中村文昭「〈ネジ式螺旋対談〉ドストエフスキーin21世紀」を読む


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は小柳 安夫氏の批評を紹介する。



清水正VS中村文昭「〈ネジ式螺旋対談〉ドストエフスキーin21世紀」を読む

小柳 安夫

江古田文学」第82号は平成25年3月25日に発行された。特集は「ドストエフスキーin21世紀 批評家 清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて」。清水正の長年にわたるドストエフスキー研究に敬意を表した編集長の中村文昭が、ドストエフスキーと清水の両方に焦点を絞って丸ごと作ってしまった1冊である。
編集長・中村文昭と批評家・清水正による巻頭の〈ネジ式螺旋対談〉がきわめて面白い。中村は清水のドストエフスキー体験を、小林秀雄の「直観批評」と対比して「神秘体験」と読む。
「中村 小林の直観批評には清水正の神秘体験がないと僕は読みますけど。
清水 神秘体験?
中村 うん。つまり小林は直観批評でね、彼はランボォとかゴッホとか、もちろんドストエフスキーとか論じているけど、なぜドストについて書くのをやめたんだっていったら、俺キリスト教徒でないからと言う。そこが直観批評の限界かもしれない。やっぱり神秘体験がないんだな。(中略)清水式ネジ式螺旋批評には空回りがいっぱいあるけど、ドスト文学の神秘的な核に向かって1ミリ単位で螺旋状に掘り下げていくぞといった情熱がある。この執拗な情熱の核に清水正自身の神秘体験が重なっている気がしてならない。やはり清水正ドストエフスキー文学との出会いと体験とは、同時に清水さんの神秘体験だったんじゃないかと思う」(P15〜16)
対する清水は、「神秘体験」という中村の指摘をどうしても受け入れない。
「清水 中村さんは神秘体験という言葉で表現しましたけれども、僕にとっては時間なんですね、時間。(中略)〈時間は繰り返す〉ことになると、善悪観念がつぶれるんですよね。崩壊するんですよ。だって善いも悪いもなくなっちゃうんです、すべては決まっていたんだからね」(P18)
「清水 うん、そうそう。イエスは2000年の時空を超えて、あの菱形の貧しい、貧しい娼婦の家に現れてるんだと。それが見えてるんだと、ソーニャにはね。ところが…。
中村 なぜそういうことが言えるの、あなたは。(中略)それは神秘体験だとは言えないのですか。
清水 いや、それは神秘体験じゃなくて…。
中村 なくて?
清水 一つは、やっぱりテキスト解読の問題としてね。
中村 うん、テキスト解読の問題、そっか」(P41)
清水が書き続けた批評の原点、つまり出発点についての、この清水本人と中村の認識の違いは面白い。これは一体何に起因するものだろうか。
清水は「罪と罰」論の出発点から、高利貸しの老婆アリョーナ殺しの目撃者にリザヴェータを設定したことにこだわっていた。社会のダニである老婆アリョーナ殺しだけだったら、「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」というラスコーリニコフの犯罪理論が通用するけれども、実際にはラスコーリニコフはリザヴェータまで殺している。これはどういうことか――というのが清水の批評の立脚点になっている。
ラスコーリニコフのつぶやく「おれにあれができるだろうか」の「あれ」をどうとらえるか。以下は推測に過ぎないが、「罪と罰」論の出発時点では、清水は「あれ」を老婆殺しだと思っていた。しかし老婆だけでなく、目撃者のリザヴェータも殺したことによって、非凡人は無垢の人間までも殺していいという、さらにその先の理論までラスコーリニコフはやすやすと到達してしまっている。
「あれ」とはそんなに簡単に到達できるものではないだろう。とすれば「あれ」とは単なる老婆殺しなどではなく、もっと大きな、ロシア皇帝の暗殺といったテーマなのではないか。つまりラスコーリニコフの「あれ」とはロシアの圧制を救済する革命なのではないか。清水がそう考えても不思議はない。実際にドストエフスキー政治犯として捕えられ、死刑寸前まで行っていた。しかしそれを当局に推測されては自分の命にかかわる。だから「老婆殺し」に話をいわばすり替えた。時間をかけてここまで清水はたどり着いたと思う。
そして清水の批評は次の段階を迎える。いや、皇帝殺しでもまだまだ小さい。ラスコーリニコフは自らの宗教的復活を願っていたのではないか。つまり「あれ」とは自身が復活することではなかったか。ところが「罪と罰」のエピローグでラスコーリニコフは「復活した」のではなく「復活の曙光に輝いた」と書かれている。以降、「カラマーゾフの兄弟」に至る大作は、まさに「復活」するための歩みで、そしてそれはついに書かれなかった――と。
以上、清水の「罪と罰」批評の変遷をおさらいしてみた。今回の対談は、螺子式螺旋を描きながらも、その清水の約50年に及ぶ思考の過程をうまく引き出している。これは清水の主張する「時間」と「テキスト解読」を、「神秘体験」というまったく違う視点から切り込んだ聞き手の中村の功績が大きいように思う。
例えば清水と中村の決定的な違いは、次のような対話の場面でスリリングなまでに際立つ。
「中村 僕は、さっきも言ったけど、一神教キリスト教っていうのは、世界の様々な宗教の中の特殊ケースなんだと、そのことをおさえておく必要がある。不思議なんだけど、キリスト教の非理性的なナンセンス、受肉した神や死と復活の信仰、神学が、いかに理性や科学や唯物論的世界観をかの地で築くことに貢献したかに驚いている。具体例をあげれば天動説ですよね。あの天動説がなければ、地動説なんて考える必要もなかった。(中略)マルクスの経済学や、ダーウィンの進化論やガリレオニュートンからアインシュタインの自然科学の原理も、結局、アンチ・キリスト教です。受肉した神=キリストのナンセンスを証明するために西欧人は智をついやしてきた」(P73)
そして中村はこう発言を続ける。「そして現代、何が残ったかって言ったら、人間不要の科学万能主義でしょ」「現代人は死者は復活する、死者は生きていると今、言えるのかという難問」「宮沢賢治は死んだ妹トシを求めてオホーツクまで旅をするじゃないですか。あの雲はトシかもしれないとか、科学的に言ってそんなことはあり得ないと分かっていながら賢治さんは求めている」「2×2=5がないとオカシイという人間最後の願いのようなもの、ああいう苦悩というものが、僕はひっかかっているわけ、ずーっと」(P73)
これぞ中村の言う神秘体験の核である。アンチ・キリスト教主義のはびこった近現代社会の中で、しかし中村は神秘体験という人間最後の願いを求める。それに対して、神秘体験という言葉を受け入れず、「時間は繰り返す」と主張する清水はこう答える――「僕も中村さんに聞きたいんですね、同じことを。そのキリストが復活であり、命であるということを信じているのですか」(P73)
清水がここで語る「復活」は、すでに中村の語る「復活」ではない。科学万能主義の中で、しかし復活を主張する中村に対し、清水は復活も含めて「すべては決まっていた」と断言する。この見事なまでの対話の噛み合わなさ。それでいて両者それぞれ自分の立場から見事にドストエフスキー文学と対峙しているという、ドストエフスキーの奥深さ。近年、これほど刺激的な対談はない。
(2013年11月6日・記)