清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(6)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から内容の一部分を何回かにわたって紹介する

идиот・新しい物語

(一)小林秀雄《『白痴』についてⅠ》からの出立

「僕は働いた。僕は苦しんだ。創作を余儀なくされるということは何を意味しているか、君は知っているか。いや、有難いことに君は知るまい。君は未だ嘗て註文で即ち『メートル』附で書いたことはないと僕は思う。従って君はこの地獄の苦しみを味ったことはあるまい」

 ドストエフスキーがマイコフへ宛てた手紙の一節で、小林秀雄が「白痴」論で引用した箇所である。
 ここでまず問題となるのは「創作を余儀なくされる」という言葉である。職業作家ドストエフスキーは不断に書き続けることを自分の仕事(使命)として引き受けた、従ってそれは当然、といってすますことは酷であろう。内容、構成の二面において完璧といってもよい『罪と罰』を完成させた作家が、一年足らずの間を置いただけで『白痴』に着手しているのである。出来不出来は別としても、この、大作完了後から大作執筆開始までのわずかな物理的時間が驚きである。小林秀雄が《「白痴」は「罪と罰」ほど明瞭な腹案の上に書かれたものではないと見るべき》と指摘しているのは妥当である。おそらくドストエフスキーは『白痴』において一貫したテーマを予め設定してはいなかった。「僕がまだ全く熟し切らないこの思想を捉へねばならないやうになったのは、全く僕の絶望的境遇の為に外ならない。僕は玉ころがしの遊戯の様に冒険してみた『兎も角、筆さへ執っていれば何んとかなるだろう』、これは許し難いことである」(一八六七年、十二月三十一日、マイコフ宛)。ドストエフスキーは敢えて「許し難いこと」に挑んだ。『白痴』は明瞭な設計図なしに着手されたということだ。
 『白痴』は小林秀雄が安易に信じたように、『罪と罰』のエピローグで予告された「新しい物語」ではない。極端な言い方をするなら『白痴』をどのように読んだところで、そこに「人が次第に新しくなって行く物語、次第に更生して行く物語、一つの世界から他の世界へと次第に移って行く物語、これまでまるっきり分らなかった新しい現実を知る物語」を見出せる訳ではない。ラスコーリニコフが復活の曙光に輝いた場面を想起してみるがよい。彼は「次第に」復活したのではない。彼は「突然」復活の曙光に輝いたのである。ムイシュキンとてラスコーリニコフと大同小異である。ムイシュキンは「次第に」白痴となったのでもなく「次第に」白痴から回復してきたのでもない。
 ムイシュキンはペテルブルク(現実世界)での生存は愛すべき「滑稽でばか」な側面(本質)を晒け出しているとはいえ、けっしてそれ自体を白痴とすることは何人もできない。にも拘らず作者は臆面もなくムイシュキンを白痴呼ばわりしてはばからない。作者は明らかにイジオート(идиот)に二つの意味を付与した。一つはリザヴェータ夫人やアグラーヤが「おばかさん」(дурак)と呼ばれる意味でのそれであり、もう一つはムイシュキンの存在、その眼に見えぬ深層の闇から不気味に発光する狂気的側面(宗教奇人)である。ドストエフスキーはムイシュキンにこの二つの意味を付与して、彼にペテルブルクという現実を歩かせる。そのしどろもどろで、滑稽な歩みの、行きついた極点に真の、つまりもはや二義的な意味だけではなく、意味そのものさえ峻厳に拒むидиотが待機している。ここに『白痴』という物語の、作者さえ予期していなかったすごさがある。否、作者は充分に予期していたといってもよい。だが、ドストエフスキーは自らのペンが書き終えた、そのидиотを本当に知っていただろうか。またもや、否、だ。ドストエフスキーはマイコフに正直に語っているのだ。彼は「玉ころがしの遊戯の様に」幾度も幾度もムイシュキンを突っつき回したあげくに、やっとのことでムイシュキンという玉が落ちゆく穴(ブラックホール)を発見したのだ。換言すれば「全く熟し切らないこの思想」を発見したということだ。
 ドストエフスキーがいう「創作を余儀なくされる」ということは、彼自身がいう『メートル』附(注文)で書くことを意味しない。この「地獄の苦しみ」は、ムイシュキンをシベリアから帰還したラスコーリニコフなどと見ている評家には逆立ちしたって分るまい。単純に考えてみれば自明の理だ。シベリアで復活の曙光に輝いたラスコーリニコフがなぜ白痴なのか。早急な決断を下したがる評家がつまずいただけだ。ドストエフスキーは生涯、『罪と罰』のエピローグで約束した「新しい物語」を書けなかった。『白痴』は『罪と罰』完成後の第一作目であるという意味でだけ「新しい物語」である。『罪と罰』完成後、「創作を余儀なくされ」た作家が何を書くか。これを分明にするための手掛りは、前作、『罪と罰』の世界にしかない。