ユッキーの紙ごはん(連載9)

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ユッキーの紙ごはん(連載9)


【棚に上げたものがそのうち頭の上に落ちてきそう】

ユッキー


小学生の頃、父親に文句を言った。親に対してだったか教師に対してだったか、それは曖昧なのだけど、要は「大人はこう言って叱るけど、その大人だってこういうことをしている」という類の文句。
子どもらしい反抗をした私に、父は「仕方ないだろう」と冷静に言い返した。

「自分のことは棚に上げなきゃ叱れないじゃないか」

それ以来、父のこの言葉がいつでも頭の中にあるようになった。大人を見るたびに、「自分のことは棚に上げなきゃ……」と反芻した。親だとか教師だとかいう、子どもの私にとって別の、もっと上位の生き物だった存在が、私と同じものになった。

たとえば、休み時間が開け、嫌いな教師が教室に入ってきてコーヒーの香りがする。私たちは学校にいるあいだ水しか飲めないのにこの人はコーヒーなんて良いものを飲んでいたんだ、とわずかに怒りを覚えるようになった。「結局は私たちと同じ生き物のくせに、自分のことを棚上げしなきゃ私たちを叱れないくせに、ずるい」と。それまでは、やっぱり先生はコーヒーとか飲むんだ、大人だ、と畏怖に近い感情が胸に浮かんでいたのに。

自分のことは棚に上げなければ子どもを叱ることもできない、仕方のない生物。親も教師も親戚も、大人が正しいとは限らないと知ったとき、ちょっと失望した。ちょっと悲しかった。先ほど書いたように、大人はずるいと思うようになった。
だけど頭の奥では、嬉しかった。純粋な喜びじゃなくて、「やった! 大人が正しいとは限らないから、必ずしも傷付く必要なんてない!」と捻くれたことを思って嬉しかったのだ。

そしてもう一つ、いつも正しくなくたっていいんだと思えたことが、何よりも救いだった。大人になっても自分のことは棚に上げてずるく生きる生き物でいていいんだ。大人になることは思ったより怖くなさそう!

開き直り続けて、かくして私は意外と正しくなくてずるい生き物・大人になった。そりゃもちろん現実では開き直ってばかりはいられなくて、反省したり自己嫌悪に陥ったりもするけど、基本的には気楽に生きている。

つい最近、友人に「他人のことを怒ったり嫌ったりしない人だよねえ」と感心半分、呆れ半分(というように見えた)に言われて、「たしかに」と思った。
自画自賛じゃない。いつからか、他人を嫌うことをしなくなった。というより、できなくなった。きっと、「今まで棚に上げ続けてきた自分のこと」がどれほど大量なのかを知っているから、あまり他人に対してどうこう言えなくなってきている。

いくら開き直ったって、棚の広さにだって限界はあるよなあ。

※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。