小林リズムの紙のむだづかい(連載71)
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『ドラえもん』の凄さがわかります。
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紙のむだづかい(連載71)
小林リズム
【キャピキャピ女子がオットセイになれるとき】
「ねぇ、おならしていい?」
と聞かれたので、どうぞどうぞと答えると、彼女はぷしゅーっと音の鳴らないおならをした。「あ、やばい、これ臭いやつだ」とか言いながら。友達を前におならをするのもかなり高度なのに、彼女は恋人候補だった人の前で音つきのおならをしてしまったという強者だから、あんまり関係ないのかもしれない。
そんな彼女の姿をみていたら、清水先生から借りた、つげ義春の漫画の「退屈な部屋」を思い出した。
妻に内緒で部屋を借りた夫は、そこで自分だけの時間を楽しんでいた。とはいっても食べ物や生活用品があるわけでもないので、寝たり煙草を吸ったり、おならをしたりするだけで、特にこれといって何をするでもない。けれど彼はそんな時間が好きだったのだ。しかしある日妻にバレてしまい、家の道具まで持ち込まれてしまう。一気に生活感の出てきた部屋で、夫はだんだんと窮屈になってくる。しまいには母親までやってきて彼を叱りつける。妻と一緒にトボトボと元の場所へ帰っていく最後のシーンが印象的だ。
退屈なものは退屈だから価値がある。そこに他のものが入り込んでくると、それはもうまったくの別物に変わってしまって意味がなくなる。たとえば、私と友人はふたりだけでだらだらとお酒を飲んだり、くだらない話をしたり、野生にかえったかのように振る舞っているけれど、そこに新たな人、殊に男の人なんかが入り込んできたりしたら、それはもうまったく別の空間になる。同じ時間、同じ場所でも意味がなくなってしまうのだ。
適当に食べてごろごろとしている姿がトドとかオットセイみたいに見えたので、あたしたちって前世オットセイだったかもねー、と友人に話すと、
「むしろオットセイの時代に戻りたいね。動物園で愛想ふりまいてれば魚もらえて生きていけるんだもん」
と言うので笑ってしまった。ハイ、握手ー!と言われたら「アウアウ」とか鳴きながら片手をあげる。すると食料である魚がもらえる。確かになんてラクな生き方だろう。
「でもそれって動物園で飼われるオットセイだから、野生のオットセイはもっと大変だよ」
「野生で生き残れないようなオットセイが捕獲されて動物園に行くんだって」
と、どうでもいいことを延々としゃべっていた。
もし、ここにあまり親しくない人や男性なんかがいたら、私たちはメイクをしていて、机の上に散らかったお酒をまとめて捨て、アベノミクスの話だってしていたかもしれない。けれど、オットセイでいる時間は何にも代えがたいくらいに居心地が良いのだった。